目指すのは「永平寺テロワール」と「持続可能な日本酒づくり」の両立  - 福井県・吉田酒造(白龍)

2022.09

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目指すのは「永平寺テロワール」と「持続可能な日本酒づくり」の両立 - 福井県・吉田酒造(白龍)

成澤綾子  |  酒蔵情報

100%地元産の米で全量純米の酒づくりをおこなう吉田酒造(福井県吉田郡永平寺町)は、米と水にこだわり抜いた「永平寺テロワール」を追求し続けています。令和3酒造年度全国新酒鑑評会では、自社栽培の山田錦を使った純米大吟醸『白龍』で金賞を受賞しました。

「後を継ぐなんて想像もしていなくて、大学を卒業するまで蔵に入ったこともなかったんです」と話すのは、杜氏の吉田真子さん。

蔵元を務める母の由香里さんとともに「永平寺テロワール」が生まれるまでの歩みや、葛藤と挑戦の日々、今後の展望についてお話をうかがいました。

桶売りからの自立を目指すも門前払い

吉田酒造は1806年の創業以来、「桶売り」をメインに酒づくりをおこなっていました。桶売りとは、需要に対して製造量が追いつかない酒蔵に対して自社でつくったお酒を売ることです。桶売りしたお酒は、購入した酒蔵のお酒として販売されます。吉田酒造として販売するお酒は、製造量全体の1割程度だったそうです。

今から32年前、吉田酒造の歴史を変える転機が訪れます。それまで桶売りの取引相手だった酒蔵が、大量生産が可能な機械を導入したのです。すぐに契約を打ち切られたわけではありませんでしたが、与えられた猶予は5年でした。

5年の間に蔵が自立するための活路を見出さなくてはなりません。それまで吉田酒造が製造していたのは一級酒や二級酒(※)が上限でしたが、消費者が日本酒に求めるクオリティが向上していた背景もあり、桶売りしていたお酒を市場に売り出すだけでは、蔵の存続は難しい状況でした。

当時、6代目蔵元を務めていた真子さんの父・智彦さんは「大吟醸酒をつくらなければ道はない」と考え、山田錦を購入して質の高いお酒をつくろうとしますが、販売元に「前年度に山田錦を購入した実績がない蔵には売れません」と断られてしまいます。

※かつて存在した、国税庁による日本酒のランク付けである「等級制度」(二級酒〜特級酒の分類)による名称。詳しく知りたい方は、こちらの記事がおすすめです。

「売ってもらえないなら、つくればいい」3年かけて自社栽培の山田錦を実現

これからどうしたらいいのか悩んでいたとき、現在も精米を依頼している福井パールライス工場のベテラン精米杜氏・横井さんから「吉田さんは田んぼをたくさん持っているんだから、山田錦を自社栽培したらいい」とアドバイスを受けました。

吉田酒造では酒米の生産はおこなっていませんでしたが、食用のコシヒカリを生産する田んぼをいくつも所有していたのです。

「そうか、売ってもらえないなら自分でつくればいいんだ!」と、目から鱗の提案に可能性を見出した智彦さんは、1989年より一部の田んぼで山田錦の生産に着手します。

まず最初に取り組んだのは土壌の改良でした。コシヒカリを生産していた田んぼには化学肥料や除草剤を使用していたため、土が痩せ細っていたのです。根気よく土を耕し、おがくずや牛糞、もみ殻などを混ぜた堆肥で栄養を与えました。

山田錦は出穂(しゅっすい)した時点からの積算温度が1000度に達し、気温が18℃を下回ったら収穫するのがベストだとされています。しかし、福井県は全国でも有数の日照時間が短い県です。

積算温度に達するまで粘ろうとすれば18℃以下になってしまい、それ以上はいくら待っても稲の発育が進みません。さらには収穫する前に台風が来たり、稲に霜が降りてしまったりする危険もあります。

当時、福井県は山田錦の栽培が可能な地域の北限地とされていて、栽培の難しさから挫折する農家が多く、プロでも難しい挑戦でした。

懸命に取り組んだ結果、一年目は3俵の山田錦を収穫。量も品質もまだまだ納得いくものとは言い難くも、なんとか採れた思い入れの強い米です。

貴重な3俵の山田錦でつくられたのは、磨き抜かれた精米歩合が低い純米大吟醸酒ではなく、精米歩合50%の純米大吟醸酒と60%の特別純米酒でした。智彦さんは「大切に育てた永平寺の米の味わいを、しっかり感じられるお酒にしたい」と考えたのです。

土地に根ざし、風土を生かす「永平寺テロワール」の礎が、ついに築かれました。とはいえ、たった3俵では蔵を存続させられませんし、品質にも改良の余地が大いにある状況です。その後も土壌づくりに励み、3年をかけてようやく良質な山田錦の栽培に成功しました。

栽培を重ねるごとに米の品質も収穫量も向上し、酒造の経営も軌道に乗っていきます。

知識ゼロ、社会人経験ゼロから酒づくりの世界へ

山田錦の自社栽培に成功してから約25年が経った2014年6月。就職活動を控えた真子さんのもとに、母・由香里さんから「卒業したら永平寺に帰ってきてほしい」と連絡がありました。

当時は智彦さんが病に倒れ、入退院を繰り返していた時期と重なります。酒蔵の仕事は由香里さんと祖母、季節雇用の杜氏や蔵人、パート従業員で切り盛りしている状態でした。大阪の大学に進学し、そのまま大阪で就職するつもりだった真子さんはかなり悩んだといいます。

「姉は東京での仕事が軌道に乗っていて、私が帰るしかない状況なのは理解できましたが、最初は戸惑いましたね。酒づくりの知識がないのはもちろん、それまで蔵に入ったこともなかったので『私に何かできることがあるのかな?』と思ったんです。でもやっぱり母と祖母の力になりたくて大学卒業と同時に永平寺に戻り、2015年に吉田酒造に入社しました」(真子さん)

当初「営業ならできるかもしれない」と考えていた真子さんに対して、由香里さんは「営業をやるなら自社のお酒についての知識がないと務まらないから、1年間は酒づくりをしてほしい」と告げました。

真子さんが蔵人として初の酒づくりに奮闘するなか、2015年12月に智彦さんが亡くなります。人手不足もあり、その後も酒づくりから離れるタイミングがないまま、2016年7月からは真子さんにとって2期目となる28BYの酒づくりがはじまりました。

杜氏になんて、なりたくなかった

28BYの酒づくりが進んでいた2017年2月、予期せぬ出来事が起こります。杜氏を務めていた方が、諸事情から突然辞めてしまったのです。

そこで急遽、真子さんが杜氏代理となって酒づくりを再開することになりました。もろみをつくった経験もなかったので、県の機関である「食品加工研究所」の方にもろみの経過を毎日送ったり、現場に来てもらってアドバイスを受けたりしながら、なんとかお酒を完成させたといいます。

「あの状況で2ヶ月半、本当によく頑張ってくれました。お客様からのクレームもなかったですし、一定のレベルはクリアできていたと思います。ただ、『これから』については不安もありました。真子の気持ちが前向きではないのは感じていたので……」(由香里さん)

「本当は2期目の酒づくりが終わったら、蔵を辞めようと思っていたんです。酒づくりの難しさを感じていたのと、朝早くて夜遅い、休みもない重労働にも疲れてしまって。それが急に杜氏代理をすることになって、気持ちがついていかなかったですね。無我夢中でなんとか酒づくりを終えたあとは、自分の力不足に不甲斐なさも感じて『このままだと正式に杜氏になってしまう。でも私には無理だ』と落ち込んでいました。正直に言えば、逃げ出したかったです」(真子さん)

転機は2017年5月、酒づくりを終えて1ヶ月が経ったころに訪れました。意気消沈している真子さんのもとに、地酒協同組合の事務局から「北海道の上川大雪酒造で、試験醸造に参加しないか」と打診があったのです。連絡をくれたのは父・智彦さんとも親交が深く、吉田酒造の状況もよく知っている方でした。

「『吉田酒造をどうにかしなくては』と連絡をくださったんだと思います。真子にとって何か変わるきっかけになればと、ちょっと強引に北海道へ行かせました」(由香里さん)

「まだ酒づくりの疲れが抜けていなかったですし、気持ち的にも沈んでいたので、お話を聞いたときは気乗りしなかったんです。でも心配して声をかけてくださった方の気持ちを考えると、お断りするのもなあと思って。流れに身をまかせた形で、気づいたら北海道にいました」(真子さん)

北海道で知った “酒づくりの面白さと奥深さ”

そんな気持ちで向かった北海道で、真子さんの人生を大きく変える出来事が待っていました。上川大雪酒造で副社長と総杜氏を務める、川端慎治さんとの出会いです。

これまで酒づくりを一から教えてもらう機会がなかった真子さんは、川端さんのもとで基本に忠実で丁寧な酒づくりを学びました。川端さんのアドバイスや指導を受けて、真子さんの心境に変化が起こります。

「川端さんに出会うまでの酒づくりは『なんとかお酒を完成させないと』ということくらいしか考えられなくて、とにかく必死でした。目の前の仕事をこなすのに精一杯で『こんなお酒がつくりたい』なんてところまで考えが及ばなかったですね。でも北海道で6本の試験醸造に関わるうちに、少しずつ酒づくりの面白さや奥深さがわかっていきました。『教えてもらった知識や技術を活かして、自分が心から美味しいと思えるお酒をつくりたい』と思えるようになったんです」(真子さん)

真子さんは3期目の酒づくりに杜氏として挑戦すると決意し、永平寺に戻ります。同年、姉の祥子さんも結婚を機に永平寺に戻り、夫の大貴さんとともに吉田酒造に入社しました。家族が一丸となって、真子さんを支える体制が整ったのです。

酒に合わせて田んぼを使い分け。個性豊かな味わいと酒質

吉田酒造が酒づくりに使用する米は、永平寺町産の山田錦と五百万石、飯米の華越前のみです。最寄りの越前野中駅前から山際まで自社の田んぼが広がります。

蔵のすぐ裏手には雄大な九頭竜川が流れ、良質な水が豊富に採取できる酒づくりに適した土地です。九頭竜川を構成するのは霊峰・白山の雪解け水をたっぷり含んだ伏流水で、水質はしっかりしたミネラル感がありながらもバランスのいい中軟水。この水が、酒づくりにも米づくりにも使われています。

酒づくりの仕込み水も米を育てる水も同じだからこそ、この土地でしか出せない『永平寺テロワール』を表現できると考えています。ただし土壌は田んぼによって変わるので、使う水は同じでも米にはそれぞれ個性が出るんです」(由香里さん)

米づくりに使用する水は、それぞれの田んぼの近くにある用水から引いています。山際の田んぼには他よりも冷たい水が入り、少し小粒で旨味が強い米に。川筋にある田んぼではミネラル感の強い米もできるといいます。土に砂が混じった田んぼもあれば、足を踏み入れると膝まで沈む、沼のような田んぼもあるそうです。

「父の代で田んぼの土壌改良をしましたが、それぞれの田んぼの個性は残りました。個性豊かな土壌から個性豊かな米が収穫できるので『このお酒には、この田んぼの米を使おう』といったように、米の特色を活かした酒づくりをしています」(真子さん)

永平寺町産の米の味わいを最大限に引き出すため、真子さんが杜氏になった2017年からは全量純米での製造にこだわっています。

精米歩合60%の『特別純米無濾過生原酒』を軸に個性豊かなお酒を展開する吉田酒造ですが、すべてのお酒の根底にあるのは「米てきてき、水てきてき」の信条です。

「福井県の禅言葉にある『黒てきてき、白てきてき』が由来になっています。『黒はどこまでも黒く、白はどこまでも白く。あるべき姿を追求し、最大限に力を発揮する』という意味です。つまり米も水も妥協せず、その味わいや特徴を最大限に活かした酒づくりを追求することを吉田酒造の信条としています」(由香里さん)

「吉田酒造のお酒は特定名称ごとにボトルを色分けしているんですが、それぞれの色に意味があるんです。純米大吟醸酒には美しい米の色である白いボトルを使用し、透明感のある綺麗な味わいを表現しています。水のミネラル感を活かした純米吟醸酒は青、豊かな米の味わいをしっかり感じられる純米酒や特別純米酒は茶色のボトルです。新酒鑑評会で金賞を受賞した純米大吟醸クラスはもちろん、近年は米の旨味をより感じられる低精白の酒づくりにも力を入れています」(真子さん)

持続可能な酒づくりで醸す「永平寺テロワール」を目指して

真子さん自身も挫けそうになった経験があるように、酒づくりは過酷な重労働です。「酒づくりのシーズンは、7ヶ月にもわたって休みがない状況も珍しくなかった」と真子さんは振り返ります。現在、吉田酒造の酒づくりをメインでおこなうのは21歳と25歳の蔵人と、29歳の真子さんの3名です。酒づくり中も、蔵人が週に1回は休めるように配慮しています。

「もっと休んでほしいんですが、うちのような小規模な酒蔵では難しいのが現状です。今は私も若いので休みがなくてもなんとかなっていますが、今後もずっと続けるのは現実的ではありませんし、この働き方を若い世代に受け継がせるなんてことはしたくありません。造り手の犠牲の上で成立する酒づくりは、いつか破綻すると考えています。

手間と時間のかかる『永平寺テロワール』を実現するには多くの労力が必要ですが、それだけの価値があり、妥協はできません。土づくりからはじめる酒づくりと、持続可能な働き方を両立させるため、新体制の構築を模索しています」(真子さん)

2022年6月、吉田酒造は香港の企業との共同出資で、海外向けの日本酒を醸造する酒蔵を設立しました。持続可能な酒づくりで永平寺テロワールを世界に広めるべく、吉田酒造の挑戦は続きます。

酒蔵情報

吉田酒造有限会社
住所:福井県吉田郡永平寺町北島7-22
電話番号:0776-64-2015
創業:1806年
代表取締役:吉田由香里
杜氏:吉田真子
Webサイト:https://www.jizakegura.com/

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