2021.01
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「飲み手」と共に500年。日本酒最古の銘柄「剣菱」の歴史と哲学 - 兵庫県・剣菱酒造(1/3)
屋上から望むのは、西に六甲アイランド、東に尼崎から大阪へと至る工業エリアを浮かべた瀬戸内海。まさに今期の酒造りが始まろうとする10月下旬、青空はところどころに秋らしいうろこ雲を湛えています。振り返り仰ぎ見ると、大空をバックにした20,000斗の大菰樽の中、コンビニやスーパーマーケットでしばしば見かけるシンプルな黒いロゴがこちらを見下ろしていました。
兵庫県神戸市、古くから酒どころとしてその名を馳せる灘五郷。日本最古のブランド「剣菱」が造られている剣菱酒造の浜蔵にやってきました。
剣菱、500年の歴史①──あの人も剣菱を愛していた
穏やかでユーモラスな語り口で剣菱の歴史をお話してくれたのは、剣菱酒造蔵元・白樫家の4代目である白樫政孝社長。1505(永正2)年に伊丹で創業した剣菱酒造は、500年以上にわたる歴史の中で、5軒にわたり蔵元を交代してきました。
創業者は稲寺屋。200年以上にわたるその経営下では、赤穂四十七士が吉良邸への討ち入り前の出陣酒として剣菱を飲んだことをきっかけに大ブームが巻き起こります。近年、タピオカを飲むことを「タピる」と表現するように、剣菱を飲むことを「けんびる」と呼んでいたことが文献に残っているほど。
しかし、そこでうっかり調子に乗ってしまった稲寺屋。
「当時は製造量や酒を造ってよい時期が細かく決まってたのに、『出したら売れるから』とたくさん造って売り抜こうとした結果、2回捕まって廃業。現在で言うところのコンプライアンス違反ですね」
2軒目の蔵元は津国屋。現在のラベルにある「瀧水」という商標は、もともと箕面の滝でお酒を造っていた彼らの水へのこだわりの証として誕生しました。
1743(寛保3)年から1872(明治5)年まで一世紀以上におよぶ津国屋時代、国学者・平田篤胤や漢詩人・頼山陽、土佐藩藩主・山内容堂など名だたる偉人たちが剣菱の味を高く評価してきました。剣菱に過激なまでの愛を注いだ山内氏には、坂本龍馬の脱藩を交渉する下戸の勝海舟に剣菱の一気飲みを催促したという、これまた今で言えばアルハラまがいのエピソードもあります。
幕末まで好調だった津国屋の雲行きが危うくなったきっかけは1868(明治元)年の戊辰戦争。政府が酒造家から酒造免許の更新費を徴収することで、戦争の軍資金を確保しようとしたのです。
「現在の価値で推定すれば2億円ほどを支払ったにもかかわらず、明治維新によって酒造規制は緩和。せっかく更新した免許が取り上げられ、全員に新しい免許が与えられる結果となりました。『話が違う!』と言っても後の祭り。『金融デフォルトには気をつけなさい』という教訓でしょうね」
剣菱、500年の歴史②──激動の中、剣菱の味を守り抜く
「税の導入以降だけでなく、過去にも遡って何年分もの税金をまとめて払わなくてはならなくなったため、大量のキャッシュが必要になり廃業。かつて最も質の悪いお酒だと思われていた日本酒の『新酒』がよいお酒のイメージへ方向転換したのもこのころです」
4軒目の蔵元は池上茂兵衛。
「米騒動に巻き込まれ、立ち直ったところで関東大震災が発生。剣菱は江戸への下り酒として勝負してきたので、東京の得意先が潰れてしまうとすっかりダメになってしまうんですよ」
大阪・谷町で酒販店を営んでいた白樫家にバトンが渡ったのは1928(昭和3)年。醸造所を伊丹から灘へと移し心機一転する一方、二度目の世界大戦へと揺れ動く社会の中で、剣菱もまた激動の時代を迎えます。
1943(昭和18)年、太平洋戦争の物資不足により命じられた企業統合令により3軒の酒造会社と合併。「甲南酒造」の一部となった剣菱は、「このお酒に『剣菱』の名前を付けてしまえば、いままで何軒もが潰れてまで守ってきた味が壊れてしまう」とその看板を下ろします。
約5年後の1949(昭和24)年、甲南酒造の解散に伴い、「剣菱」の名前が復活。戦後の米不足により、国から三倍増醸酒(酒に水と醸造アルコールを足し、酸味料や糖類などで補うお酒)の醸造が勧められていたころのことでした。
「剣菱はこの三倍増醸酒を頑として造りませんでした。その結果、税務署から呼び出されて『これ以上言うことを聞かなかったら、米の支給量を減らすぞ』と警告されてしまいます。仕方がないから一度だけ造ったものの、桶ごと他社へ譲渡。するともう一度呼び出され、『ほかのメーカーに酒を売れるくらいなら、米を減らしてもよいだろう』と、結局は米の支給量を減らされてしまったんです」
そんな仕打ちを受けながらも決して三倍増醸酒を造ることはなく、「剣菱の味」を守り続けた白樫家。8蔵のうち7蔵が倒壊した1995(平成7)年の阪神大震災を乗り越え、4つまで建て直した蔵を2019年に1蔵閉鎖。現在は3つの蔵でお酒を造り続けています。
剣菱を支える三つの哲学
続いて白樫社長は、剣菱が大切にしている三つの家訓についてお話をしてくれました。
一つ目は、「止まった時計でいろ」。
「『流行を追うな』という意味です。世間で流行っているお酒を造るのは、動き続ける時計の針を追うようなもので、決して正確な時間と重なることはできません。けれど、止まっている時計なら、24時間の中で2回、正しい時間と重なる。お酒の好みは時代によって変わるけれど、また戻ってくるものだから、自信のあるお酒一本に絞りなさいということです」
二つ目は、「お客さまからいただいた資金は、お客さまのお口にお返ししよう」。
「手持ちのお金は、お客さまが『またおいしいお酒を造ってね』という思いで置いていったものだから、お酒造りに使いなさい。よいお米があるなら買いなさい。ひと手間かけてお酒がおいしくなるならひと手間かけなさい。決して蔵元が贅沢するために置いていかれたお金ではないぞ、ということですね」
三つ目は、「一般のお客さまが少し背伸びしたら手の届く価格までにしろ」。
「江戸時代、殿様から一般市民までみんな同じ『剣菱』を飲んでいました。それは日本の大切な文化です」と白樫社長。外部のマーケターからプレミアムな剣菱を造ろうというオファーが来ることもあるそうですが、「ずっと飲み続けているお客さんは、その剣菱を飲めばどれだけの価値のものかはすぐわかるし、『騙された』と思わせてしまうようでは信頼関係を結ぶことはできません。おじいさんやお父さんから代々飲んでくださっているお客さんに失礼のないよう、自分たちがお酒を造るのに必要なお金だけをいただきます」。
酒造りに投資をする一方で、値段は上げない。一見矛盾するかに見えるこの信条を実現するため、広告を一切打たないという方針を貫いている剣菱酒造。約50名の社員を擁しますが、営業は白樫社長ひとりが担当しています。以前はホームページさえありませんでしたが、2013(平成25)年にようやく公式サイトを開設、FacebookやInstagramでの発信も開始しました。
「一切情報を発信していなかったせいで、ヤバい噂が出てきてしまって(笑)」と苦笑いする白樫社長。「後発だから、いままでにないものを作りたい」と意気込んだ担当者により、「資料館」と呼ぶにふさわしい充実したホームページが誕生しました。
(上記で紹介した剣菱の歴史も、公式サイトにより詳しいストーリーが掲載されています)
また、2020年からはオンラインショップもスタート。お客さまからの「なかなか手に入らない」という声に応え、定価のみでの販売を行っています。
桶買いをやめ、100%自社醸造へ
2020年、剣菱酒造はそれまで行っていた「桶買い」(小規模の酒蔵で造ったお酒を買い取ること)をやめ、100%自社醸造に切り替えました。
「買い支えられなくなってしまったんですよね。一方、取引先の酒蔵さんはどこもすばらしい技術を持っているところばかりで、『この酒蔵はやめて、この酒蔵は残そう』というようなこともできませんでした」
やや切り込んだ話題にもかかわらず、取材陣に「なんでも聞いてください」と微笑む白樫社長。業界や飲み手からも賛否の多い桶買いを続けていた理由も打ち明けてくれました。
「プレミアを付けないために量は確保したいと思っていましたが、かつては造石高に限りがあり、桶買いをするしかなかった。石数制限がなくなってからも、機械化すると味が変わってしまうが、自社製造に切り替えられるかといえば人手が足りず、杜氏格ではない人間を杜氏にしなければならなくなる。そうすると、味にばらつきが出てしまいます」
自社でまかなえない部分を補うため、一般的な購入額の2倍以上を支払って桶買いを行っていたという剣菱酒造。購入量はあらかじめ決まっているものの、購入するお酒は毎回唎酒をして選ぶことで、質の悪いお酒は決して買い取らない体制を整えていました。
高い技術力を持ち、それぞれの人気銘柄で名を馳せる12の酒蔵との取引を苦渋の思いで停止。創業から515年目、完全自社醸造の酒蔵として、新たな一歩を踏み出しました。
まとめ
中編では、いよいよ蔵見学へ。500年間変わらない剣菱の味はどのように造られているのでしょうか? “日本酒造りの教科書”とは一線を画す、その特殊な酒造りの現場に迫ります。
中編:日本酒造りの教科書と一線を画す。500年変わらない「剣菱」の酒造り
後編:500年変わらない日本酒の味とは?「剣菱」全商品をテイスティング!
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