2020.06
03
日本酒の容器について学ぼう - 「容器・流通イノベーション」の歴史と現在地
先日の記事「コロナ後の世界に日本酒を広めるために - いま起きている変化と、今後の展望」では、日本酒/アルコール業界での新たな取組として、「量り売り」や「小容量規格の商品ラインナップの増加」の動きが広がっていることをお伝えしました。
このような「容器・流通のイノベーション」は、実は「古くて新しい話題」だと言えます。なぜなら、日本酒の容器は長い歴史の中でたびたび進化し、そのことが流通の拡大を可能にしてきたからです。本記事では、このような歴史について楽しみながら振り返り、最後に現状と課題について考えていきます。
日本の酒と容器の始まり
日本の酒の起源については、縄文時代の遺跡から発掘された「土器」にヤマブドウ、ニワトコなどの植物が付着していたことを根拠として、「縄文時代の果実酒が起源である」とする説があります。それが本当かどうかは分かりませんが、少なくともこの説に出てくる土器が最古の酒の容器の一つであった可能性は高いと言えるでしょう。
後に、日本の酒は「米の酒」が主流となりますが、容器は引き続き土器、後に陶器の「甕」などが主流であり続けました。
日本酒の「市場化」と容器の進化 - 「甕」から「桶・樽」へ
鎌倉時代から室町時代にかけて、日本酒と容器に最初の大きな変化が訪れます。
平安時代末期に始まった日宋貿易で大量の銅銭を輸入したことにより、日本の経済システムが徐々に「物々交換」から「貨幣経済」に移行し、その中で酒が「人気商品」として価値を持つようになりました。すると、京都を中心に自ら酒の製造と販売を行う「造り酒屋」が増加し、また、平安時代から続く「僧坊酒」(寺院で造られた酒)も生産量を拡大するなど、民間での酒造りが本格化していきました。
一方、容器については、鎌倉時代に、短冊型の板を立てて並べ、竹の箍(たが)で締め付け、底を入れる結桶(ゆいおけ)や結樽(ゆいだる)(現在と同じスタイルの樽・桶)が生まれました。この「結桶・結樽」は、それ以前の曲げ物(一枚の薄い木の板を丸く曲げて接着したもの)に比べて強度・密閉性・耐久性に優れ、液体の貯蔵・運搬などに適していました。
当時成長著しかった酒造業者は、従来の甕に変わって「桶」を仕込み容器、そして「樽」を貯蔵・流通容器として採用しました。そして、酒造業者の増産に応じて桶と樽も大型化していき、甕がせいぜい3石(約540リットル)程度の容量であったのに対して、室町時代末期には10石(約1800リットル)以上の大桶が使われるようになりました。
このように、鎌倉・室町時代に「日本酒の市場化」と「容器の進化」が同時並行で進み、これらが出会って日本酒の生産量が飛躍的に向上したことは、まさに「容器・流通イノベーション」と呼ぶにふさわしい革命的な出来事であったと言えるでしょう。
江戸時代の日本酒流通事情 - 「下り酒」と「量り売り」
江戸時代に入ると、既に普及していた樽に、「人口構造の変化」と「海運の整備」が組み合わさって、ますます日本酒の流通が拡大します。
安土桃山時代まで、日本の人口や経済活動は上方(京・大阪など近畿地方中心部)に一極集中していましたが、江戸時代に入ると、遠方に江戸という一大消費都市が誕生しました。これを受けて、上方の酒造業者たちは樽詰めした酒を江戸へ出荷し始め、 航路(当初は菱垣廻船、後に樽廻船)が整備されると流通量がさらに拡大しました。
なお、現代の祝いの席で鏡開きに用いられている菰樽(こもだる)は、江戸時代に酒樽を船で運ぶ際に揺れて損傷するのを防ぐため、刈り取ったマコモの茎で巻いて保護したことが始まりだと推測されています(現在はマコモではなく、稲わらや樹脂などを巻くことが一般的です)。
江戸に運ばれた上方の酒は、その品質の高さから「下り酒」として評判となりました。上方の酒造業者たちは江戸での販売を伸ばすために熾烈な競争を繰り広げ、その中で、江戸への酒の発送に有利な海沿いに位置し、また酒質改良に努めた「灘」の酒が江戸市場を席巻していきました。現在の灘と言えば大手酒造が集中することで有名ですが、このような「日本酒の全国ブランド」の基礎は江戸時代に築かれたと言えるでしょう。
ますます広域的に流通するようになった酒樽は、問屋などを経由し、各地の酒屋に運び込まれました。 当時の酒屋の一般的な販売スタイルは「量り売り」 で、まず酒屋が樽からくみ出した酒を容器に詰めて売り、中身を飲み終えた客は空の容器を持って来店し、お金を払って商品を注いでもらうというシステムでした。そして、このための容器として、酒屋や地域の名前が入った 「貸し徳利」(「通い徳利」や「貧乏徳利」という呼び名もあります)や「貸し樽」 が用いられました。
日本酒の近代化と容器 - 「ホーロー」と「瓶」、そして「紙パック」へ
明治時代を迎えると、現在主流となっている仕込み容器の「ホーロータンク」、そして、主な流通容器の一つとなっている「ガラス瓶」が登場します。
江戸時代まで主流であった木製の仕込み桶は、酒造技術が近代化していく中で、「雑菌が生息している可能性もあるので不衛生だ」と指摘されるようになりました。この問題を解決するため、鉄の表面にガラス質の釉薬を焼き付けたホーローの酒造タンクが開発され、政府もこの普及を後押ししました(木桶の復興については後述します) 。
流通容器については、1899年(明治32年)に江井ヶ嶋酒造が初めてガラス瓶詰の清酒を発売し、すぐに灘・伏見などの大手酒蔵に広がりました。各メーカーは、従来のような「樽流通+量り売り」という形態だと、酒屋が水や他のメーカーの酒を混ぜることが懸念されるため、「品質保証」の観点から積極的にガラス瓶を採用しました。このガラス瓶の普及は緩やかに進み、戦前の時点ではまだ樽による流通量の方が多く、戦後になってようやく本格的に普及しました。
そのガラス瓶も、他に様々な容器が開発されるにつれ、容量の割に重いこと、割れやすいことなどのデメリットが目立つようになり、新たな容器として1977年に現在見られるような形状の「紙パック」の清酒が市場投入され、2005年には清酒における紙パックの比率が過半数に達しました。
こうして、現在の日本酒の容器の主流は、仕込み容器はホーロータンク、流通容器は紙パック(低価格帯)及びガラス瓶(中~高価格帯)となりました。
日本酒の容器の現在地 - 新たな「容器・流通イノベーション」の芽を育てるために
これまでの日本酒の容器は、主に実用性の観点から進化してきましたが、近年は消費者の視点を取り込む形で価値が拡張しています。
流通の面では、飲料の選択肢が増加した現代においては、容器は単なる「入れ物」ではなく、消費者に特定のイメージを喚起させ、購買行為に影響を及ぼしているものと考えられます。例えば、以下に掲載した「「ガラスびん(容器)」に関する意識調査報告書<ダイジェスト版>」(2014、日本ガラスびん協会)によれば、ガラスびんは「高級、おしゃれ、おいしそう、こだわり感」、スチール缶・アルミ缶は「丈夫」、ペットボトル・プラスチック容器は「持ち運びやすい、開けやすい」、「紙パック」は「ゴミに出しやすい、安い」というイメージを持たれているようです。
また、今回の新型コロナ禍の影響を受けて広がりつつある「量り売り」は、廃棄物の減量につながるということで、「環境」や「サステナビリティー」という新たな価値から評価されています。少し余談ですが、筆者は、先日の記事でヤッホーブルーイング社がリユース可能な専用ボトル「グラウラー」を販売/レンタルしてビールの持ち帰り販売を開始したことが紹介されていたのを読んで、素直に「ああ、グラウラーってかっこいいな。それに、なんだかエコなイメージも受けそうだな」と感じました。そして、「江戸時代の「貸し徳利」を今風にアップデートした「SAKEグラウラー」があったら楽しいかもな」と想像を膨らませていました。
一方、製造の面でも、発酵の多様性や木桶製造技術・林業の保護という観点から「木桶仕込み」が見直され始めています。この取組は、日本酒の味わいの多様化や、「伝統と革新」というイメージの創出に寄与し、消費者のニーズを喚起するポテンシャルを持っています。
このような量り売り、木桶などの日本酒の容器を取り巻く新たな動きが、現代的な価値を踏まえてさらに進化し、次代の「容器・流通イノベーション」に発展することを期待したいと思います。
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