サブカルの街・下北沢発、お客様が燗酒で“整う”空間「板前料理とスパイス 燗味処」

2025.05

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サブカルの街・下北沢発、お客様が燗酒で“整う”空間「板前料理とスパイス 燗味処」

水戸 亜理香  |  お燗番の流儀

飲食店やイベントで日本酒を提供するプロフェッショナルの中でも、燗酒をつけることを専門にしている「お燗番(おかんばん)」という人々がいます。

日本酒は、ほんのわずかな温度の違いでも味わいが変わるもの。それぞれのお酒の個性を見極め、料理やシチュエーションに合わせて最適な温度に温め、最もおいしく味わえる状態で提供するのがお燗番の役割です。温める道具や合わせる酒器、提供タイミングなどによって絶妙な調整を加えるテクニックは、まさに職人技といえるでしょう。

そんなお燗のプロフェッショナルに、燗酒の魅力やこだわりの燗つけメソッドについて語ってもらう不定期連載「お燗番の流儀」。第4回目は、サブカルチャーの街・東京は下北沢の「板前料理とスパイス 燗味処」のお燗番である長尾麻菜実さんにお話を伺いました。

日本酒観を一変させた、燗酒との出会い

幼少期より、料理をしたり漫画を描いたりといった手先を使うことが好きで「ちょっとオタクな子どもだった」という麻菜実さん。その気持ちは変わらず、成長しても「将来は漫画家か飲食店をやってみたい」という将来の夢を持っていたそう。

漫画を描くスキルは、今でも店のメニューやオリジナルの酒器などのイラストやデザインに活かされています。もうひとつの夢だった飲食店を実現するため、若い頃からいろいろな店舗でアルバイトを経験する日々を送ってきました。

大手チェーンでのアルバイトを経て、個人店で働いてみたいと思うようになった麻菜実さん。当時の知人に相談したところ紹介してもらった店が、日本酒の名店「神田新八」でした。

初めての個人店で働くことになった麻菜実さん。これまでも日本酒を取り扱う店に勤めていたことはあったものの、基本はメニューに「日本酒」「熱燗」とだけ書かれ、細かい温度などは特に気にしたことがありませんでした。「お酒自体は好きだけど、日本酒はおいしいと感じたことがなくて。焼酎とかウイスキーを飲むような二十歳でした」と当時の日本酒観を語ります。

そんな麻菜実さんが勤め始めた「新八」は、ホールスタッフ全員がお燗をつけられるようになるのが前提。そのレクチャーの際、上司に「これ飲んで、覚えて」と渡されたお燗酒の濃醇な味わいとボリュームに「なんだこれ、旨っ!」と思わず声を上げたのだそう。そのお酒が埼玉県・神亀酒造の「神亀 純米酒 辛口」。この体験が麻菜実さんの日本酒観を一変させます。

いわゆる「燗酒向き」の旨味やコクがあり、複雑味を持った酒が好みであることに気づいた麻菜実さん。また、「燗酒は体も疲れにくく、体感的に翌日も楽に感じた」と当時を振り返ります。俄然燗酒への興味が湧いてきますが、とはいえ燗つけについては右も左もわからなかった入店当初。店の日本酒のメニュー表を上司の前に持っていき、「このお酒の適温、端から全部教えてください」とお願いしたのだとか。

「教えられた適温を書き込み、ひたすらまずは数字と温度計で覚える。それを繰り返していくうちに、自分の中の『この辺りがおいしい』という肌感が身につき、温度計がだんだん必要なくなってくる。日本酒がおいしく感じられることがうれしいのはもちろん、このプロセスが楽しかったんです」

さらに「新八」では、蔵見学や呑み切り会、日本酒イベントの参加など、従業員に日本酒への興味を促すような研修が豊富に組まれていました。こうしたチャンスの中で、これまで知ることのなかった酒蔵の成り立ちや蔵元の人柄など、酒のバックボーンになる面を知り、「たくさんの人が集まって、こんなに長く繊細な作業を経て、そうして酒ができるんだ」と感銘を受けたそう。これらの経験が「お燗番を本気でやってみたい」と決意するきっかけとなりました。

「新八」には4年勤め、その後数店舗に勤務したのち「新八」時代の同僚であり現在の夫・長尾松雄さんと二人で独立を決意。2019年に下北沢で燗酒専門店「板前料理とスパイス 燗味処」をオープンします。

体に優しく、落ち着いて向き合える店を

2022年に一度移転をしているものの、移転先も同じ下北沢。

「元々バンドマンになるのが夢だった夫が下北沢に住んでいたんですが、やっぱりカルチャーのある独自の魅力を持った街ですよね。ところが、下北沢も路線である小田急線沿線も、燗酒のお店が全然ないんです。ナチュールワインとかクラフトビールなら勝負できているお店がちゃんとあるので、下北沢を燗酒カルチャーの入口にもできるんじゃないか、と思ったのがこの地を選んだ理由のひとつです。

もうひとつ言うと、大人が落ち着いて飲める店が少ないので、料理とお酒に落ち着いて向き合える空間を作りたかったというのもあります。空間、料理、お酒、すべてがじんわり沁みて、安心できる店です。そのためにはお酒がお燗酒であることも大前提でした」

燗つけの理念は「調理の一環」

旬の魚や野菜を使ったシンプルな和食もあり、スパイスを効かせた中華風・エスニック風料理もあり、麻菜実さん曰く「平たく言うと何でもある」という「燗味処」。料理が何でもあるということは、その“何でも”に合わせるお燗をつける度量も持ち合わせているということでもあります。

「燗酒はいわゆる“熱燗”だけじゃない。突き詰めたことを言えば、手を加えて常温以上の温度に上げれば“燗酒”ですから。だからこそ燗つけには経験と知識とやる気が必要で、それを提供できるのが『燗酒専門店』だと思っています

夫の松雄さんと二人三脚で営む共同作業の店。麻菜実さんが専業お燗番で、松雄さんが専業料理人だと思われていることが多いそうですが、麻菜実さんがスパイス料理を作ったり、松雄さんが燗をつけることもあるそう。「お互いの役割もできることで、料理とお酒に関しても包括的な考え方ができています」

そういった事情もあり、麻菜実さんも松雄さんもともに、お燗をつけることは「調理」の一環だと捉えているとのこと。

「日本酒は発酵食品で、特に燗酒に向くお酒はアミノ酸が豊富。お味噌やお出汁も火を入れて温度帯が上がったほうが、丸みが出てきますよね。逆に、冷たい状態だとちょっと塩味が尖ってしまったり。温かい味噌汁やお出汁がホッとできるのと同じ感覚で、お酒のこともとらえています

常連のお客さんの中には「『燗味処』には“整い”に来てる」と言う方もいるそう。

「銭湯とか、サウナみたいな感覚なんですかね。疲れを癒す、温かさ。やっぱり燗酒は体に馴染むんだと思います」

「旨い」時間を緩やかにキープする、燗つけメソッド

店ではレギュラーで40種類程度のお酒を扱っています。ラインナップは、麻菜実さん好みの広島県・竹鶴酒造の「竹鶴」や鳥取県・梅津酒造の「梅津」などを筆頭に、西日本の酒蔵を中心とした、どっしりと奥深い酒。それらのお酒の燗つけメソッドを教えてもらいました。

「湯煎は『かんすけ』を使用していて、温度は比較的低め。夏場は70℃から80℃ぐらいで、冬場は75℃から90℃ぐらい。気温によって調整しています。なので、ある程度緩やかに仕上げていく感じですね。緩やかに温度を上げると、冷めるスピードも緩やかで、“旨い時間”が長続きする気がするのが理由です。

ちろりは錫製のもので、お客さんへの提供は、ガラスの徳利にしています。元々お酒が入って売られている王冠付きの一合徳利瓶があるじゃないですか。それを提供用として再利用しているんです」

ガラスの徳利を使うのは、厚みのあるガラスは保温性が高いことに加え、お酒の減るペースが可視化できるためだといいます。初めてのお客さんのペースが掴めるのはもちろん、常連のお客さんでも「今日はいつもより速いな」など、その日の体調などがある程度わかるのが利点だそうです。

また、温度計は使わないのが麻菜実流。麻菜実さんが燗つけをしているとき、松雄さんが調理を担当し、お互い自分の持ち場に集中できるので、温度計は必要ありません。温度が上がることによるアルコールの香りの変化で確認しているそうです。

「これは、初めてのお酒を燗つけするときも同様です。最初に、加熱していないそのままの状態の酒を試飲し、その酒本来のポテンシャルを確認することはあるけれど、燗つけとしてやることはいつも同じ。アルコールのツンとした刺激の変化で頃合いを計っています」

飲む酒器に関しては大きめの平杯を使います。

持ったときと置いたときの安定感があることが理由のひとつです。それから、大きい平杯に多めにお酒が入っていれば、温度変化を感じやすくなるというのもいいところ。あとは一般的に言われるように、平杯なら舌の甘みを感じやすい部分にお酒が広がってくれる、という点もあります」

和食、エスニックと多彩な「燗味処」ですが、メニューの中からおすすめのペアリングを伺うと「四川麻婆豆腐に、旨味の厚みがある円熟したお酒を合わせるのがおすすめですね」という答えが返ってきました。

「スパイスの辛味と刺激に調和する甘みのあるお酒が理想。甘みといっても糖分の甘さではなく、アミノ酸の旨甘味のことを指しています。それから、料理の味わいに関してはえぐみも旨味のひとつになるので、雑味がある程度あるものもいい。最後に、熟成によるとろみ、つまり円熟味を持ったお酒ですね。これ!というひとつの銘柄に限らず、いろいろなパターンはあると思います」

最後に麻菜実さんに個人的なお気に入りの銘柄を伺ったところ、挙げてくれたのは島根県・桑原酒場の「扶桑鶴」でした。「滋味深くて穏やかなのに、味の厚みもあるのが好きです。でも正直言うと、お気に入りはたくさんありすぎて決めきれないのが本音です」

麻菜実さん自身はチャキチャキとして竹を割ったようなキャラクターですが、つける燗酒は緩やか。「『本人は気が強くツンツンして見えるのに、つけるお酒はデレっと優しい味わい。ツンデレ燗だね』と言われたこともあるんです(笑)」と苦笑いします。

「『おいしい燗酒をつけたいと思わなければ、おいしい燗酒はつけられない』と思っています。精神論みたいですが、燗酒には気持ちが出ると思っているので」と話す麻菜実さん。お燗番の優しさと情熱が表れ、それを飲み手も感じ取ることができるのが、燗酒の楽しさなのかもしれません。

項目長尾麻菜実さんのスタイル
レシピの作り方外気温により調整。夏は70~80℃、冬は75~90℃のお湯で、香りを確認しながら3~8分ほどでつける
燗つけ設備かんすけ
燗つけ用酒器錫製のちろり
温度計使用しない
イチオシの酒器(注ぐ用)ガラスの徳利(日本酒が入っていた一合瓶を再利用)
イチオシの酒器(飲用)大きめの平杯
鉄板ペアリング旨味に厚みがあり円熟した酒×四川麻婆豆腐

【シリーズ:お燗番の流儀】
第一回:熱燗DJ つけたろうさん

第二回:酒番・日本酒とうつわの案内人 多田正樹さん
第三回:「燗の美穂」店主 中村美穂さん
第四回:「板前料理とスパイス 燗味処」お燗番 長尾麻菜実さん

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