2024.02
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酒米、製造、海外展開。日本酒業界で唯一無二の多角的経営に挑む飯田グループの哲学とは
酒類卸の株式会社飯田を中心に、酒造原料の販売(飯田商事)、醸造用精米機メーカー(新中野工業)、そして酒蔵(長龍酒造、綾菊酒造)など、お酒の原料から流通まで多岐にわたる企業を傘下に抱える飯田グループ。1923年、大阪の八尾に小さな酒販店として誕生し、2023年には100周年を迎えました。
日本酒を軸に、製造から流通、海外市場に至るまで幅広くカバーする唯一無二の多角的経営は、どのように成り立っているのでしょうか。株式会社飯田・経営企画部長の林 寛之さんに、その沿革や哲学についてお話を聞きました。
大阪の小さな酒販店から、24社を抱える大グループへ
創業者時代から多角的経営に取り組む
飯田グループのはじまりは、1923年、創業者の飯田弟一(いいだ・ていいち)氏が、実家の飯田酒造(奈良県、飯田本店に社名変更ののち2015年に廃業)から運んだお酒を販売する酒販店「飯田商店」でした。戦時中は酒の販売を中断を余儀なくされたことから、樽の製造などを手がけるようになり、戦後の1950年、酒類問屋として再発足します。
問屋として、飯田商店が独自の地位を築いたのは、麒麟麦酒(現・キリン)と特約店契約を結んだことでした。当時、大阪では朝日麦酒(現・アサヒビール)が9割ものシェアを持っていましたが、飯田商店だけがキリンの特約店に。「小売店が販売上必要とする商品を供給するのが問屋の道」という哲学のもと、後にキリンの社長となる本山英世氏と弟一氏との二人三脚の結果、1950年代半ばには、キリンは大阪で半数以上のシェアを獲得します。
1963年には、実家の飯田本店や親戚の酒蔵と共同びん詰場の免許を取得し、長龍酒造を設立。念願の自社ブランドの販売に乗り出しました。1964年に全国初の瓶詰め樽酒としてリリースした「吉野杉の樽酒」は、今も長龍酒造を代表するロングセラーとなっています。
「弟一氏はテイスティング能力に優れており、未納税移出(桶買い・桶売り)の仲介をしていました。地方の酒蔵のお酒をテイスティングして、灘・伏見の酒蔵とマッチングし、お互いを紹介をしていたようです」と林さん。このように、酒販店として始まり、問屋として成長した飯田グループは、当初から多角経営を志向してきました。
「創業者は、『問屋は“できもの”と一緒で、でかくなったら潰れる』という考え方でした。差別化をする要素が少ないし、利幅が大きいものではないので、卸以外の事業も必要だということ。そのため、醸造用の糖類などの酒造原料の販売も手掛けることで、バランスを取っていました」
100年の経営で一度もリストラをせず
現社長の飯田豊彦氏が、東京大学を卒業後、キリンを経て祖父である弟一氏率いる飯田グループに入社したのは1991年。小学校3年生のころ、父を病気で亡くした豊彦氏は、母・祐子氏が社長を務めるのを見ながら、幼ながらにいずれ自分が後継者となることを理解していたといいます。
そんな豊彦氏が社長に就任したのは、酒類市場が激動する2002年のことでした。
「バブルが終わった1990年ごろは、卸売がグループ全体の売上の半分以上を占めていました。しかし、酒類販売免許の規制緩和に伴い、小売業のマーケットが変化していくにつれ、飯田グループは、規模を拡大するのではなく、酒類業界を活性化していくような事業に注力するという立ち位置にシフトしていきました。卸売や小売という流通の川下ではなく、原料供給などの川上に軸足を移していったのです」
2006年には、岡山県の醸造用精米機メーカー・新中野工業の全株式を取得。現在は製麹メーカーから酒販業向けのコールセンターに至るまで、大小さまざまな24社の企業を擁しています。
「2023年で創立100周年を迎えましたが、コロナ禍も耐え忍び、創業以来、一度もリストラをしていません。業態は変化していますし、縮小した事業もありますが、グループ全体で多様な事業を手掛けているので、人員を流動しながら続けられています」
新中野工業の事業を引き継ぎ、精米業界を支える
新中野工業は、醸造用のお米に特化した精米機を開発し、画期的な全自動型精米機などにより業界に大きく貢献しましたが、精米機の需要が落ち込むにつれ、次第に経営難に陥っていきました。
そこで、飯田豊彦社長が、新中野工業の為久英二社長(当時)に、「新中野工業の精米機は日本酒産業にとって絶対になくなってはならない貴重な技術です。私たちがお手伝いするので、営業や事務部門を統合して合理化を図りませんか」と提案。2006年にM&Aへと至りました。
日本酒需要が低迷する中での精米機の販売は年々難しくなっていたため、飯田グループの事業承継後は、酒蔵から依頼されたお米を精米する委託精米を主事業として展開。徹底した透明性を確保すること、顧客の細かな要望に応えることなどをポリシーに掲げ、当時、安価で信頼性が低かった委託精米の品質を高めることに成功しました。
また、新中野工業の拠点である岡山県で雄町の認知度が低いことを受け、2008年に「雄町サミット」の立ち上げに協力するなど、酒米文化の拡大にも貢献しています。
日本酒の原点となるお米について、飯田グループが尽力しているのは日本国内だけではありません。1998年に設立されたアメリカ現地法人・IIDA SAKE RICE Inc.(ISRI)では、海外現地の清酒メーカーに原料米を販売しています。
「もともとISRIは、1993年の日本大冷害による米不足と、1994年のウルグアイ・ラウンド合意で米の輸入が可能になったのを受けて、海外産のお米を日本に流通するつもりで設立されました。新中野工業とは、このころ精米機を導入していたご縁がありました。
しかし、2008年に三笠フーズによる事故米事件(※)が起きてからは、日本における海外産米の需要はなくなり、アメリカの現地メーカーに精米されたお米を供給するのがメインになりました。最近は、アメリカ国内で増えているクラフトサケ醸造所からのニーズも増えてきています。当初は投資としての側面が大きかったですが、ようやく利益が出るようになってきていますね」
近年、アメリカで“SAKE”を造る醸造所が加速度的に増えているのは、精米設備が充実しているため、酒造りに適したお米が手に入りやすいから。世界に酒造りが広まるにつれ、最近はヨーロッパなど他国からの引き合いも出てきているそうです。
※事故米事件:海外から輸入したお米の中でも非食用に限定された事故米を、三笠フーズが食用として転売していた事件
「三方よし」の精神が成り立たせる多角的経営
飯田グループの強みについて、林さんは「時代が変遷する中で変化してきたように思います。創業当時と、日本酒需要が拡大した時期と、2000年以降の強みはまったく異なります」とことわった上で、現在の認識を次のように説明します。
「飯田グループは、サプライチェーンの中にあるボトルネックを、どうすればボトルネックでなくできるのかに取り組んでいる企業です。業界のインフラ的な部分に切り込むことで、縁の下の力持ちとしての事業を確立しています。
また、それらの事業をやっていると、他社ではなかなか手に入らない情報が流れ込んできたり、独自のネットワークを構築できたりする。技術やノウハウというよりは、適宜現れるそうしたアイデアを生かすことができるのが強みだと思います」
業界のインフラを支える飯田グループの事業の中には、自社にほとんど利益がないものも。例えば、2014年には新日本流通へ資本参加し、「P箱」のレンタル事業を継承。酒瓶のリユースのために開発されたシステムで、酒蔵、びん商、酒販店の間をP箱が循環するという仕組みです。
また、同年には、広告のない日本酒専門雑誌である「酒蔵萬流」も創刊されました。
飯田社長と15年ほど一緒に働いている林さんは、「(社長を)そばで見ていると、そもそもあまり儲けようと思っていないのではないかと思うことがあります」と苦笑いします。
「飯田社長は、まさに、グループの経営理念の『三方よし』を体現する人。日本酒業界がどうしたら発展できるかということを常に考えて、ビジネスのロジックや優先順位を組み立てている印象があります。競合他社にもお互いにメリットが出るように、健全な競争意識で業界の価値を上げていく。そうしたほうが、長期的に見て自分たちの利益にもつながるという考え方なんですよね」
100年目から、2つの事業に注力
海外のプレイヤーを原料・技術でサポートする
2023年に創業100周年を迎えた飯田グループ。取引先を招いての創業記念祭にて、飯田社長は今後注力していきたい二つの事業として、海外事業と国内事業それぞれを挙げました。
「海外において、SAKEは種から芽が出てきたような状況」と認識する飯田グループ。先に解説した精米事業のほか、飯田グループがこれまで培ってきたノウハウを提供しながら、現地の造り手の支援に力を入れています。
「現在は、醸造協会が海外向けに提供しているきょうかい7号・9号酵母の総代理店を請け負っているほか、日本の原料を海外に輸出するビジネスをおこなっています。その中で、白麹を現地のクラフトビールメーカーに使ってもらい、日本発の新たなビアスタイルとして確立するための取り組みも始めています。
また、現地のクラフトサケ醸造所を対象とした醸造セミナーや、日本の蔵元とのディスカッションの場も設けています。海外の酒造りについては、アメリカに限らず世界各地から需要があり、まだまだ大きなチャンスがあるという状況です」
さらに、流通面においても、19の蔵元が有志となって取り組むアメリカ向けの日本酒輸出事業JCTO Japanに出資。現地での流通を手掛けるグループ企業・Kuramoto USではプロモーション部隊として、プロレスラーや戦隊ヒーローのようなビジュアルが印象的な「Sakeman」が、知識の普及も含めた普及活動をおこなっています。
見た目は奇抜ですが、知識は豊富で、アメリカ現地の消費者が楽しく受け入れられるパフォーマンスができるのが強み。現地のファンの心理を理解したチームと共に、「ただ輸出して終わりではなく、実際に飲んでもらうところまで関わって、日本酒の良さを正しく伝えていきたい」と意気込みます。
国内では情緒的価値を高めるイベントを
国内事業については、「理想論のようなもの」と謙遜しつつも、「お酒のある生活の豊かさを、改めてアピールしていきたい」と話します。
「国内の製造や流通については、今の市場環境を考えると成長が見込みづらいと考えています。でも、悲観的にならず、これまでと違う新しい世界を考えていかないと、面白みは生まれません」
機能的価値から情緒的価値へのシフトを志す飯田グループでは、2022年に長龍酒造のお酒を楽しめる施設「長龍ブリューパーク」をオープン。酒蔵に隣接していた元幼稚園の跡地にタップルームやショップ、飲食スペースを設け、長龍酒造の日本酒とクラフトビールを味わえる場所を生み出しました。
さらに、2023年には、大阪・天王寺公園「てんしば」で一般のお客さまに向けたテイスティングイベント「サケモノガタリ」を開催しました。
「サケモノガタリは、利害にとらわれずお酒の需要を喚起するイベントにしたかったので、飯田グループの名前は一切出していません。取引先かどうかにかかわらず、日本酒、日本ワイン、クラフトビール、リキュールなど、関西のあらゆるメーカーさんに出店を呼びかけました。
消費者に対して、『関西にはこんなに美味しいお酒を作っているんだよ』ということを知ってもらうためのイベントだったのですが、出店者のメーカーさんにも喜んでいただけたし、2000名以上のお客さん、しかも若い人たちにたくさん来ていただけました。
参加費も破格ですし、社長が『毎年やる』と言い出したらどうしようかと思っていますが(笑)、やって良かったと感じるイベントでしたね。こうしたイベントはこれからもやっていきたいと思っています」
まとめ
お米をはじめとした原料の供給をはじめ、業界のインフラとなる多様な事業をカバーしている飯田グループ。自社のみの利益ではなく、日本酒業界全体のメリットを考えた行動で、まさに「三方よし」を実現してきました。大阪の小さな酒屋から、世界中にネットワークを持つコングロマリットへ進化した飯田グループは、次の100年にどのような歴史を築いていくのでしょうか。
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