日本酒と「ひげ文字」の過去と現在(前編) - 文字からデザイン、そしてアートに

2023.10

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日本酒と「ひげ文字」の過去と現在(前編) - 文字からデザイン、そしてアートに

石田 信夫  |  日本酒を学ぶ

伝統的な日本酒のラベルには、迫力のある独特の書体で銘柄が書かれています。これは、「ひげ文字」 と呼ばれています。

以前、日本酒ラベルの歴史的な変遷について3回にわたってお届けした連載の中でも、このひげ文字は登場しています。しかし、書体についてはすべてを書ききれませんでしたので、この記事ではあらためて「文字文化」という観点から光を当て直してみます。

ルーツは江戸町人の文字文化

こちらは、「自慢一」という銘柄のラベルです。「一」の字を見ると、あちこちに向かってひげが伸び、削り取ったような空洞(かすれ)もあります。まるで、苔むした梅の古木を切り倒して転がしたよう。たかが「一」の字をここまでコテコテにデフォルメするか、と唸らされる造形です。

3文字合わせると、さらに迫力アップ。勢いがあり、威勢のよさもあり、にぎやかで、元気が出るような気分になる書体です。

歌舞伎、相撲……人々を惹きつける書体

お祝いの席の酒にふさわしい見事なひげ文字。今もいろんな銘柄のロゴに使われています。ではいつ、どのように生まれたのか。探索の旅に出てみましょう。

江戸時代といえば、戦国の混乱が収まって治世が安定した時代です。260年という長きにわたる平和。その主役は武士から町人に移り、さまざまな娯楽文化が花開きます。 中でも歌舞伎、浄瑠璃、落語、相撲などの興行は、多くの人々を惹きつけました。客寄せのための看板や刷り物(チラシ)が必要となり、そのうちに出来上がったのが、ひと目で何の興行かが理解できるような書体だったと思われます。

代表的なのは歌舞伎の勘亭流です。肉太でうねるような書体は、歌舞伎を見たことがない人でも目にしたことはあるのではないでしょうか。

「蝕(むしくい)字」と呼ばれたひげ文字

このころ、同様に、肉太で隙間をできるだけ詰めた寄席文字相撲文字も生まれます。興行以外に火消しの纏いや半纏の力文字(籠文字などとも呼ぶ)もあります。そうした個性的な文字の一つとして出てきたのがひげ文字です。

谷峯蔵『日本レタリング史』(岩崎美術社,1992)によると、ひげ文字はもとは 「蝕(むしくい)字」 と呼ばれたといいます。式亭三馬『浮世床』の初編巻上(1838)の冒頭には、床屋の店先に書かれた屋号の挿し絵を添えて 「浮世と書きたる筆法は……無理な所に飛帛(ひはく)を付けて、蝕字とやらん号(なづ)けたる」 とあります。

飛帛とは、社寺の扁額などに見られるかすれた字体のことで、三馬さんの目には「ちょっとやりすぎで、エグいんじゃない?」と映ったのでしょう(今の目からはそれほどでもありませんが)。

勘亭流などの字体には、内にこもるような密度があるのに対し、ひげ文字には外にエネルギーを放散しているようなイメージがあります。そのせいか、寛政(1789-1801)期には、飲食店や魚河岸、酒店など「景気の良さ」を売りとする業界の看板やのれんに取り入れられた、と谷さんは書いています。

紙ラベルが用意した新ステージ

それでは本題の酒に絞って、銘柄表記とひげ文字の関係を見ていきましょう。

時代を二つに分けて考えてみます。ひとつ目は 「ラベル以前」 。型紙を用いて樽に刷り込んでいた江戸〜明治中期です。もうひとつは 「ラベル時代」 で、明治初期〜昭和です(時期は少し重なります)。ひげ文字は、時代とともに次第にその姿を整えていったことが見えてきます。

最初は“ひげなし”、普通の筆文字

「ラベル以前」とは、江戸時代、酒は樽詰めでした。 近回りにさばく時は裸樽のままでしたが、灘から船で江戸に送る下り酒は、クッションのための菰(こも) で包んでいました。今でもお祝いの鏡開きで使われる「菰かぶり」です。

その菰に、型刷りによって大書された銘柄の書体を見てみましょう。伊丹(灘に先立つ酒産地)の蔵のロゴを集めた『摂州伊丹酒樽銘鑑』(文政13=1830)という資料があります。ここに出てくる184の銘柄を、

1.意識的にひげ文字として書いたもの
2.筆勢でひげ文字っぽくなったもの
3.ひげのない普通の筆文字

に分類してみたところ、1の「意識的なひげ文字」は、わずか2割でした。多くは、ひげ・かすれの強調がないだけでなく、文字の肉も薄く、デザインの工夫をしたようにみえません。

その約30年後、幕末に江戸で出された梅素亭玄魚「新撰銘酒寿語禄」では、どうでしょうか。菰樽をびっしり積み上げた迫力あるデザインの刷り物で、関東を中心に76銘柄を紹介しています。

同じ分類をしてみると、1の「意識的なひげ文字」は5割にも上がります。この間にデザインの意識が高まったのか、江戸と上方の地域差があるのか、はっきりはしませんが、 「酒はひげ文字」という流れが生まれた印象があります。

微妙な味わいが木版で可能に

次に、 木版によるラベルが貼られるようになった時代です。ひげ文字は、紙という舞台を得て、はっきりした「進化」の道をたどっていきます。
型を用いて菰や樽に刷り込む従来の方法では、ひげ文字の細かい表現には限度がありました。刷る面が平らでなく、型紙にも厚みがあったからです。ところが、和紙への木版手刷りは、これまでよりもはるかに微妙な味わいを出すことを可能にしました。

はじめは稚拙だったひげ文字も、一点一画が骨太・肉厚になり、ひげの様式化も進みます。バックの絵柄が華やかになれば、張り合うように文字も迫力を増してきます。それを促したのが木版です。

「いな穂」に「虫食い」で遊び心も

日向数夫『髭文字』(グラフィック社, 1979)には、 「いな穂」 という技法が紹介されています。いわゆる「ひげ」で、はねや払いの終筆部分に、細い線を何本も並べて、勢いを示します。

もう一つは 「虫食い」 。縦の線や、横の線、あるいは横から縦に曲がる部分の外郭線の内側に潟湖のような空洞をつくり、文字がかすれるほどの筆勢を示します。いずれも、なるほどと思わせる名づけです。

ほかにも、打ち込みの場所に小さなひげを1、2本書き入れて、リズム感や躍動感、面白みを出しています。

手持ちの紙ラベルを見ると、書法の完成期は明治10〜20年代。このころ、酒といえばひげ文字で書くのが普通になりました。そのフォルムは大正から昭和にかけて一層洗練され、一部はデフォルメされていきます。

冒頭の「(自慢)一」は代表的なひげ文字ですが、「正宗」もまた典型例といえるでしょう。「惣一」はオブジェを据えたような存在感があります。「雪山」は、曽我蕭白の絵画のような奇怪さを思わせます。「日本心」は、曲線の面白さを生かした遊び心が楽しい一作です。  

ここまでくるとデザインの域も超えてアートに近い表現になってきます。まさに、文字を深く理解しているがゆえの自在さ。筆文字から出て、筆文字を超えたのがひげ文字といえるでしょう。

ひげ文字の現在とこれから

時を超えて現代の日本酒ラベルを見ると、残念ながら、新しいひげ文字がなかなか生まれていません。需要が少ないからです。

各蔵元には昔からのひげ文字があり、わざわざ変える必要がありません。しかも、新しい銘柄を立ち上げるときには、イメージチェンジを図ろうとひげ文字を避けがちです。最近の新銘柄のラベルを見ると、単なる筆文字、あるいは筆文字に似せたデザインがほとんどで、ひげ文字と呼べるものはほとんどありません。

進むひげ離れ、一部では復活も

もっとも、少数ながらひげ文字を見直している蔵もあります。

そのひとつが、黒龍酒造(福井県永平寺町)です。2015年の全商品見直しの際、それまで「黒龍」の一商品にすぎなかった「九頭龍(くずりゅう)」を、対等の別ブランドとして展開したいと、新たにひげ文字を書き起こしました。 「原点を忘れてはならない、という思いを形にできた」 (企画営業課)とのことです。

三河みりんの発祥蔵、九重味淋(愛知県碧南市)の「美淋酎(みりんちゅう)」は、創業245年を迎える2017年、江戸時代の「和漢三才図会」にあるのを復刻した商品です。事業の趣旨を印刷会社に伝えて出てきたラベル案はおよそ10。字体もカジュアルなものも含めてさまざまでしたが、社員投票で選ばれたのがこれです。 「記念ラベルにふさわしい格調高い字体」 (営業推進課)ということでした。

ついでながら、私が書いたものも1点。広島県立総合技術研究所 食品工業技術センターの「明魂」です。大正時代に書かれた初代ひげ文字が、コピーを繰り返されるうちに崩れてきたため、楷書に近い形で書き直しました。

蔵のアイデンティティとして再評価を

歌舞伎の勘亭流や相撲文字などは、「考案者」の名前が伝わっているだけでなく、興行主と結びつくことで、今も書法がきちんと継承されています。対して、 日本酒のひげ文字は、自然発生的であり、師匠から弟子へという伝承もあまりありません。もちろん酒の業界による庇護もありません。

このままひげ文字が使われなくなると、書き手もいなくなり、消えていく恐れもあります。せっかく江戸時代の町人の間で生まれ、100年以上の年月で磨かれてきた文字文化です。 蔵元も、こうした歴史を知り、酒蔵のアイデンティティを形成する要素の一つとして、新しい銘柄を起こすとき、もっと積極的にひげ文字を復活させてみてはどうでしょうか。

今回は、ひげ文字の歴史的な変遷を振り返ってみました。後編では、日本酒のラベルデザインを長く手がけてきた金沢市の中山穆さん(90)の聞き取りを紹介したうえで、酒ラベルやひげ文字の将来について考えてみます。

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