
2025.06
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腐造・火落ちとは?- 日本酒の腐敗対策の歴史から現在まで
お酒は腐らないと言われています。アルコールの殺菌作用によって、腐敗の原因となる菌が増殖しにくいためとされていますが、昔は製造の過程や貯蔵中にお酒が腐ってしまうことがありました。
お酒が腐ることは、「腐造」や「火落ち」と呼ばれ、昔は蔵の存続にも関わるほどの危機となっていたのです。
今回の記事では、お酒が腐るとはどんなことなのか、原因や対策、腐造や火落ちとの戦いの歴史を紹介します。
腐造と火落ちの違い
お酒が腐ることを表す言葉に「腐造」と「火落ち」がありますが、この2つの違いは何でしょうか。
まず、腐造とは、製造中の日本酒が腐敗することをいいます。お酒を搾る前の醪の状態で乳酸菌が増殖し、酸が異常に増加することで、発酵の鈍化や停止、異臭を引き起こします。
原因となる乳酸菌は「腐造乳酸菌」と呼ばれます。アルコールが高く、pHが低い日本酒の醪は、一般的な微生物にとっては増殖しにくい環境ですが、腐造乳酸菌は低温(5〜8℃程度)、低pH(3.0程度)、高アルコール濃度(15%程度まで)でも増殖することができます。中にはアルコール濃度18%以上でも生育する腐造乳酸菌も存在しています。
それに対し、火落ちとは、搾った後の日本酒が腐敗することをいいます。日本酒の中で乳酸菌が増殖し、ジアセチル臭と呼ばれるヨーグルトのようなすっぱい香りが発生、お酒が白く濁るのが特徴です。
原因となる複数の乳酸菌は、総称して「火落菌」と呼ばれます。腐造乳酸菌と同様に、アルコール耐性のある火落菌がお酒の中で増殖する可能性があります。
腐造や火落ちをした日本酒は、風味や香りが変質し、酸味や苦味、不快なにおいが生じるようになります。飲んでも人体に影響はなく、健康被害があるわけではありませんが、基本的には商品化できなくなるため、細心の注意を払う必要があります。
腐造・火落ちの原因と対策
腐造
腐造の原因として、麹や酒母が腐造乳酸菌に汚染されることが挙げられます。汚染菌を持ち込まないためには、清潔な環境で作業することが不可欠です。特に麹室や酒母造りに使用する布などの道具類、蒸米が接するエアシューターやホースなども清潔に保ち、作業時は手洗いを徹底する必要があります。
また、醪中で酵母の増殖が遅れると腐造の危険性が高くなります。日本酒の醪のpHでは乳酸菌を完全に抑えることができないので、高い酵母密度で乳酸菌を圧倒し、増殖を抑える必要があります。現在の醸造方法として一般的な三段仕込みでは、仕込み水、麹、蒸米を3回に分けて醪を仕込みます。酒母に含まれる酵母数、酸、アルコールが一度に薄まることがなく、乳酸菌が入り込む隙が少ない醸造方法といえます。
火落ち
火落菌は、火入れによって殺菌することができます。そのため、火入れの温度が十分(標準は63℃で10分以上)である必要があります。また、特に生酒など火入れを行わない場合は、火落菌の除去に効果のある精密ろ過を取り入れることも有効です。
しかし、火落ち菌が増殖するような不衛生な環境での作業や容器・道具の洗浄不足も原因となりうるため、常に清潔な道具を使い、床を常時乾燥させておくなどの対策も必要となります。また、貯蔵後も定期的に火落菌の検査をおこなうことが望ましいとされています。
腐造・火落ちとの戦いの歴史
現在では、ほとんどみられなくなった腐造・火落ちですが、酒造りに関わる人の経験の積み重ねや努力、研究によって、現代の酒造りが成り立っています。
古代〜江戸時代
蔵人たちの経験と知恵
まだ微生物学も進んでいなかった時代、腐造や火落ちは日本酒にとって厄災として恐れられていました。最初に日本酒の火入れがおこなわれたのは室町時代に遡るとされていますが、その目的は防腐のためではなく、糖分が再発酵を起こして、お酒が辛くなるのを防ぐためであったと解釈されています。
防腐を目的とした火入れは江戸時代から始まりました。『童蒙酒造記』(1687年)には、酒の種別と醸造した時期によって火入れ時期を分け、大寒(1月20日から2月3日ごろ)に醸造した酒以外は火入れをおこなっていたと記されており、明らかに防腐を目的として火入れがされていました。また、この時代にはすでに腐造や火落ちの対策として、アルコール度数を高めるために醪や日本酒に焼酎を加える「柱焼酎」という技法も取り入れられていました。
明治時代
火落菌の発見
火入れや柱焼酎による対策は行われていたものの、明治時代にはかなりの腐造があったと記録されています。腐造や火落ちによって倒産や没落の憂き目をみる酒蔵はあとを絶たず、酒造業界が不安定な時代が続きました。当時、酒税は国庫収入の3分の1を占めていたため、政府はこの状況を重く受け止め、1904年(明治37年)に国立醸造研究所を設立し、腐造と火落ちの撲滅を目指しました。
この時代、国家の近代化、産業振興のため、欧米を中心とする国々から教師や技術者が招かれ、お雇い外国人として活躍をしていました。そのひとりであり、東京大学理学部で教鞭を振るっていたイギリス人アトキンソンは、1881年(明治14年)、火落ちした酒の中に桿菌(棒状や円筒状の形をした細菌)を見つけます。これが後に火落菌と呼ばれる細菌でした。
醸造法の変化
1877年(明治10年)頃までは、火落ちを恐れて毎月のように繰り返し火入れがおこなわれていました。お酒が目減りし、費用がかさむ一方で、木桶で貯蔵されていたため、着色や雑味、木の香りが強くなるという問題がありました。
しかし、火落菌の研究が進むにつれ、火入れ温度も菌が死滅する温度に設定されるようになりました。農芸化学者・高橋偵造の研究では、55〜56℃で15分間加熱すれば死滅するとされており、明治の末期には約55℃での火入れが一般的となりましたが、60℃を超える温度設定は稀でした。
また、明治末期の1910年(明治43年)、大蔵省醸造試験所の江田鎌次郎が速醸酒母を考案します。培養酵母と乳酸を添加した酒母で、火落ちや腐造をもたらす乳酸菌が繁殖しづらい画期的な酒母製法でした。しかし、酒質が濃醇さを欠くなどと言われた他、杜氏の旧法固持の頑固さもあり、なかなか普及しませんでした。
防腐剤の普及
この時代、火落ちに対して大きな効果を発揮したのが添加物です。明治時代以前にも火落ち予防として、草の根や木の皮などの漢方薬が使われていましたが、大きな効果は得られませんでした。また、明治初期には、劇薬であるホルマリンや塩化水銀も使用された例があるようです。
そのような状況の中、ドイツから来日し東京大学医学部で教鞭をとっていたコルシェルトは、ビール工場技師としての経験を活かし、1876年(明治9年)から清酒へのサリチル酸の使用を研究。1879年(明治12年)には「東京報知新聞」の投書欄でサリチル酸の防腐剤としての効果を発表し、広く使用されることとなりました。
大正時代〜昭和
火落菌・腐造乳酸菌の研究
アトキンソンによって観察された火落菌は、日本人研究者らによって研究が進められていきました。1915年(大正4年)、高橋偵造は生育に清酒を必要とする火落菌と必要としない菌がいることを発見します。清酒を必要とする火落菌は、後に「真性火落菌」と呼ばれるようになり、1956年(昭和31年)には田中學造らによって、生育に必要なのはメバロン酸であることが明らかにされています。
また、1957年(昭和32年)には、北原覚雄らによって、糖から乳酸のみを生成する菌にホモ型真性火落菌(Lactobacillus homohiochii)、乳酸の他に二酸化炭素などを副生する菌にヘテロ型真性火落菌(L. heterohiochii)(※)の学名が与えられました。
火落菌の研究に続き、腐造の原因菌である腐造乳酸菌の特定も進められました。昭和23酒造年度(1948〜1949年)に、全国的に腐造が発生した際には、菌学的な面から詳細に追求がなされたとされています。そして、1961年(昭和36年)頃、国税庁醸造試験所に所属する外池良三らによって分離した腐造乳酸菌は、ラクトバチルス・カゼイ(Lactobacillus casei)、ラクトバチルス・プランタラム(L. plantarum)、ライヒマン菌(L. leichimanii)と同定されました。
こうして、近代微生物学が導入され腐造や火落ちは急激に減少したものの、1930年(昭和5年)頃でさえ、火落ちによる清酒の免税が全製成量の0.1%を占めており、年間約700kLものお酒が火落ちしていました。
※ L. heterohiochiはのちにL.fructivoransに改名。2020年にはLactobacillus属の乳酸菌は大幅な再編成により、現在はFructilactobacillus fructivoransとされています。
戦争がもたらした変化
1943年(昭和18年)、戦争の影響で米の供給が減り、日本酒の醸造量が低下したことにより、酒税に財源を頼っていた政府は、清酒または清酒醪にアルコールを添加して数量を引き伸ばすアルコール添加を許可します。また、戦後には生成されると見込まれる酒の約2倍の醸造アルコールを使った合成清酒を加えて、結果的に3倍の酒を造る三増法で酒(三倍増醸清酒)が作られていました。これによって、自然発酵では17〜18%程度であった原酒のアルコール度数が高くなり、腐造や火落ちしにくい酒ができるようになりました。
また、戦争の影響は日本酒の貯蔵容器にも及びました。明治・大正時代には杉桶だった貯蔵容器も、杉材の価格高騰により、戦前には徐々に金属容器へと移り変わっていました。しかし、1937年(昭和12年)から始まった日中戦争の影響で、武器や弾薬の一部として銅タンクの供出を迫られ、代わりに琺瑯タンクが支給されました。アル添や三増法、琺瑯タンクの普及により腐造や火落ちが起こりづらくなると、酒造りに携わる人々の間に火落ち恐るに足らずの風潮さえ現れていました。
防腐剤の禁止と腐敗対策の確立
明治時代初期に防腐剤として普及していたサリチル酸も、1961年(昭和36年)にWHO(世界保健機関)とFAO(国連食糧農業機関)が好ましくない食品添加物に指定したことから社会的に問題となります。それを受け、日本酒造組合中央会は1969年(昭和44年)にサリチル酸の使用を自粛、1973年(昭和48年)に使用を禁止しました。こうして、サリチル酸添加による対策に代わり、再び火入れによる加熱殺菌法が主流となります。
火落ち防止のために製造場の衛生管理を徹底するとともに、1971年(昭和46年)には永谷正治らの研究を根拠に、火入れ条件をそれまでの60℃から65℃10分以上に変更する取り組みが全国で実施されました。
また、火入れ前の火落菌数を少なくしておくことも重要視されるようになり、当時アメリカにおいてビールやワインなどの醸造品の濾過除菌に使用されていたメンブランフィルターを使用することで、菌濃度が低下することも報告されています。戦後、日本酒の生産量が増えた頃には、除菌率は濾過機を選定する重要なポイントとなりました。
こうして、微生物学的な知識をもとに、速醸酒母の普及や醸造設備の近代化によって微生物管理が徹底されるようになりました。今日、1975年(昭和50年)ごろまで稀に見られた腐造・火落ちは、ほとんど姿を消しています。
腐造・火落ちとのこれから
技術や知識がさらに進歩した現代においては、腐造や火落ちの対策方法が確立され、消費者が耳にすることも少なくなり、酒は腐らないものと捉えられています。しかし、だからといって、腐造乳酸菌や火落菌がいなくなったわけではありません。
昔ながらの道具や製法で伝統的な酒造りを続ける蔵や原点回帰した酒造りを目指す蔵では、現代においても日本酒の腐敗には注意が払われています。また、火入れをしない生酒や低アルコール酒など火落ちしやすい日本酒の流行もあり、火落ちの危険性は今も大きいといえます。
一方で、食文化が多様化した現代においては、酸味をはじめとする一部の風味が、酒蔵やお酒の個性として捉えられることが増えています。オフフレーバーと呼ばれ、これまでは避けられていた風味が消費者に受け入れられ、実際に、腐造やそれに近い現象が発生したお酒が販売され、人気を博した例もあります。
まとめ
腐造・火落ちの歴史を振り返ると、それらが災厄とされていた古代から、研究や開発、何よりも酒造りに関わる人たちの尽力のおかげで、今日、美味しい日本酒が私たちの元に届いているのだと改めて実感することでしょう。
一方で、これまで忌避されてきた腐敗に由来する風味が受け入れられることについては、複雑な思いを抱く方も少なくないかもしれません。個性と腐敗の境界線がボヤけていくのを、時代の変化であると簡単に受け入れてしまうのではなく、先陣の努力に敬意を払いながら、今後を見守っていきましょう。
参考資料
- 北本勝ひこ, 大矢禎一, 後藤奈美, 五味勝也, 高木博史『醸造の事典』(朝倉書店, 2021)
- 栗山一秀「日本酒醸造の近代化」(化学と生物, 22巻9号, 1984)
- 来馬増夫「製成, 火入れ」(日本釀造協會雜誌, 70巻8号, 1975)
- 野白喜久雄「火落ちの研究」(日本釀造協會雜誌, 64巻2号, 1969)
- 山田正一「アル添と三増」(日本釀造協會雜誌, 74巻2号, 1979)
- 佐々木定, 山口平, 原田直喜「火落ち防止についての研究 (第1報)」(日本釀造協會雜誌, 65巻11号, 1970)
- 鈴木明治, 松岡正幸, 土崎南, 斉藤豊「メンブランフィルターによる清酒火落菌の濾過除菌について」(日本釀造協會雜誌, 67巻2号, 1972)
- 外池良三, 百瀬洋夫「清酒もろみの腐造に関する研究 (第1報)」(日本釀造協會雜誌, 56巻 6号, 1961)
- 蔭山公雄「昭和の酒造り(その1) 昭和10年頃の酒造技術」(日本釀造協會雜誌, 80巻2号, 1985)
- 研究室の歴史 - 醗酵学研究室|東京大学大学院農学生命科学研究科 応用生命工学専攻 (最終閲覧2025年6月23日)
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