家業から企業へ。日本酒とリキュールの二本柱でさらなる飛躍を目指す - 奈良県・梅乃宿酒造

2022.12

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家業から企業へ。日本酒とリキュールの二本柱でさらなる飛躍を目指す - 奈良県・梅乃宿酒造

山本 浩司(空太郎)  |  酒蔵情報

奈良県の梅乃宿酒造が、今年7月、本社蔵のある葛城市内に新蔵を竣工させ、本社機能と製造部門、物流部門を含めたすべての移転を完了させました。

「梅乃宿を家業から企業に変え、永続的に成長する組織にする」ことを目指して、2004年、生まれ育った梅乃宿酒造に戻り、2013年に33歳の若さで5代目社長に就任した吉田佳代さん。新蔵の建設は、その集大成といえます。「日本酒とリキュールの二本柱でさらなる事業拡大を進め、新しい酒文化を創造する酒蔵を目指す」という佳代さんの、20年間の奮闘の軌跡を追いました。

リキュールへの参入で低迷期を打開

奈良盆地の南の端、名峰・葛城山(かつらぎさん)を背にした田園地帯の道路を山に向かって歩いていると、忽然と、数棟の真新しい建物が現れます。梅乃宿酒造の新蔵です。サッカーコート2枚分あまりにもおよぶ15866㎡の敷地に、本社棟のほか、清酒棟、リキュール棟、瓶詰め棟が整然と並んでおり、まさに最先端の工場を思わせる外観です。

取材に訪れた10月中旬の週末は、3年ぶりの蔵開きが行われており、2日間で約3000人の梅乃宿ファンが集まりました。お楽しみ抽選会で当たりくじを引く佳代さんは、20年かけてここまでたどりついた満足感にあふれて見えました。

梅乃宿酒造の創業は1893(明治26)年。「梅乃宿」と「天下一」という銘柄で、地元の酒として人気を博してきましたが、高度成長期に大手メーカーの攻勢に押されて、自社銘柄は不振に。やむなく、造ったお酒を大手酒造メーカーに売る桶売りに軸足を移しました。

しかし、1970年代のオイルショック後は日本酒が低迷期に入り、大手の桶売りも縮小に転じます。このため、梅乃宿酒造も、1980年ごろからは自社銘柄の吟醸酒販売に力を入れるようになります。これは見事成功しますが、積極的な投資による負担もあって、蔵の経営は必ずしも安泰ではありませんでした。

そんな梅乃宿酒造に大きな転機がやってきたのが2001年でした。規制緩和によって取りやすくなった焼酎やリキュールの製造免許を取得し、2002年初めから日本酒ベースの梅酒を発売すると、2年連続して完売するほどの人気商品に。以降は、梅酒以外のゆずやもも、みかん、りんご、レモンなどのリキュールが矢継ぎ早に商品化され、蔵の稼ぎ頭になっていきます。

大企業での経験を生かした働き方改革

佳代さんが実家の梅乃宿酒造へ戻ってきたのは、リキュールで同社が湧き始めた2004年。3人姉弟の一番上に生まれた佳代さんは、弟がいずれ蔵を継ぐのだろうと感じつつも、「大好きな梅乃宿酒造の役に立ちたい」という思いから、大学では経営学を学びます。

卒業後は大阪にある従業員1000人を超える医療機器系の大手商社に入社し、総務部門に配属されました。第一希望の営業部門に選ばれず落ち込む佳代さんでしたが、その時の上司から「総務部門は社員がお客様。彼らが気持ちよく働けるように環境(制度)を整備し、組織全体が最大限力を発揮できるようにサポートするのが役目」と励まされ、一生懸命仕事に励んだのだそうです。「この時の経験が蔵に帰ってから役立つとは、そのころは想像しませんでした」と佳代さんは振り返ります。

入社から2年後に、父の暁さん(四代目蔵元、現会長)の求めに応じて蔵に戻ってきた佳代さんは、当初は営業の仕事を覚えるのに精一杯でした。しかし、やがて仕事に慣れ、蔵全体の様子が見えてくるようになると、商社時代の経験から、蔵が社員にとって働きやすい環境になっていないことに気づきます。

「定期的な健康診断もないし、財形貯蓄も未整備。福利厚生への配慮が足りず、制服の着用ルールもなければ、衣替えのタイミングも個人次第。また、製造現場にはマニュアルがなくて、杜氏やベテラン蔵人の経験に基づく判断に任されていました。家業の域を脱していなかったんですよね。こうした課題をひとつずつクリアして、“家業”から“企業”へと変身させることが、梅乃宿酒造の将来には重要だと確信しました」

こうして、佳代さんの主導のもと、梅乃宿酒造の働き方改革が始まります。定期健康診断やインフルエンザ予防接種を実施するほか、小学生以上の子どもがいる社員を対象に就学手当を支給。現在は、女性の産休後の職場復帰率100%を実現し、本人の産休だけでなく、男性の育休制度も充実させています。

会社を変革していくにつれて、「改革を加速させるには、自分が先頭に立って引っ張っていくべきだ」という思いを強くした佳代さんは、2007年、暁さんに「いずれは私が社長になりたい」と直訴します。

ところが、暁さんからは、「家業ではなく企業にしていこうとしているのだから、蔵元の娘の望みを聞いて、『はいそうですか』と社長のバトンを渡すことはできない。梅乃宿酒造が発展していくリーダーとしての力がついたと判断したら社長の座を譲るが、そうでなければ、違う人間を選ぶかもしれない」という答えが。

しかし、佳代さんは、「当然の考え方。ますます精進します」と、この言葉によってやる気がさらに膨らみ、会社全体を俯瞰する視野が広がっていったといいます。

日本酒か梅酒かではなく、美味しいかどうか

佳代さんは、社内の制度改革と並行して、商品についても改革に着手します。リキュールの人気は根強く、売上は日本酒を逆転。同業他社からは嫉妬もあってか、「梅乃宿はリキュールの会社。いずれ日本酒は造らなくなるのでは」といった声も聞こえてきました。

「蔵に帰る前に、父から『梅酒を始める』と聞いたときは、私も正直『日本酒蔵が梅酒を始めるなんて恥ずかしい』と思いました。梅酒の何倍もの手間が掛かる日本酒を造る方がずっと偉いんだという業界の雰囲気に、自分もとらわれていたんです。ところが、蔵に戻って、多くの試飲会に立ってみると、お客様の飲んだ後の表情は日本酒でも梅酒でも変わらないんですよね。むしろ、お酒にあまり強くないというお客様が梅酒を飲んだとき見せたうっとりとした表情には驚きました。そのとき、お客様が求めているものは日本酒でも梅酒でもなく、美味しい飲み物なんだと気づいたんです。以来、意識としては二つの酒に区別はなくなりました」

ただし、リキュールの好調に比べて、日本酒が伸び悩んでいたことも事実です。日本酒と梅酒の二本柱で事業を続けるには、テコ入れは不可欠でした。そこで、「梅乃宿」という定番の銘柄とは異なる大型商材として、「山風香(さんぷうか)」シリーズを2012年に投入。以後、次々と試験醸造的な新しい酒造りに挑戦して話題を集めていきました。

創業120周年となる2013年を前にして、蔵のブランドコンセプト作りにも着手。日本酒蔵としての誇りを守り、リキュールなどの新しい醸造文化を土台にした新商品を世に送り出すという想いを込めて、「新しい酒文化を創造する蔵」を看板に掲げます。外部からの評判を気にする社員に向けて、二本柱経営を貫くことを宣言する効果も狙ってのことでした。

社長への就任、そして新蔵の移転へ

創業120周年の式典では、ブランドコンセプトの説明とともに、二つの大きな発表がありました。一つは、社長の交代。このとき、暁さんは65歳でいたって健康でした。一方の佳代さんは、蔵に戻って10年が経過していたというものの、まだ33歳。しかし、蔵の成長とともに、社員の平均年齢は若くなり、管理職の多くも佳代さんと同世代になっていたことで、暁さんは「リーダーとしての資質は磨かれてきたし、今後の蔵のことを考えたら、早いバトンタッチが望ましい」と考えたようでした。

以降、代表権のない会長職に就いた暁さんは、経営面で口出しすることはほとんどなく、佳代さんは「その潔い身の引き方には、頭が下がりました」と話します。

そして、もう一つの発表が新蔵への移転でした。リキュールの売上増に合わせて、作業スペースや貯蔵場所などを増やす必要がありましたが、本社蔵は周囲を住宅に囲まれており、増築することができません。やむをえず、蔵の周囲で入手出来る土地を点々と確保しながら作業場を増やしていましたが、移動や運搬の効率が悪く、従業員間の意思疎通もスムーズに行かないという問題がありました。

「梅乃宿酒造を健全に発展させていくには、造りの作業の動線を理想的に変え、オフィスは一つに集約して、経営のスピードを上げることが何よりも大切」と考えた佳代さんは、ちょうど同時期に鹿児島の大手焼酎メーカーの見学へ行ったことで、広い土地への移転を決意します。そして、後戻りができないように、式典に参加した約300人の来場者の前で宣言したのでした。

しかし、候補となる場所はあってもなかなか取引成立までは行かず、新蔵へ移ろうという社内の機運は徐々に冷めていきつつありました。気を長くして待つしかないと感じた佳代さんは、従業員のモチベーションを保つため、さらなる社内改革を進めます。

製造責任者の仕事を一人に任せるのではなく、個性と能力の異なる3人をリーダーに選び、チームですべてを決めていくスタイルに変更。一人を部長に、二人を課長に任命し、まずは蔵人の泊まり勤務の全廃を目指し、麹造りの工程の見直しをさせました。その結果として導入されたのが、麹造りの「盛り」の工程に使える製麹機です。

「マニュアルも整備が進み、造りの工程から上がってくるデータをもとにして、蔵人一人ひとりが自主的に考えながら美味しい酒を造るスタイルが定着したと感じています」と佳代さん。新蔵へ運搬が可能な仕込みタンクや蒸し機、搾り機などを次々と最新の設備へ切り替え、移転の機が熟するのを待ったのでした。

梅乃宿ファンを増やすための新たな取り組み

2019年夏、有力候補に上げた土地が手に入るチャンスが到来し、佳代さんは迷わず購入を決定。社内にチームを作り、現場の声を吸い上げて理想的な製造場の姿を描き、取捨選択を繰り返して、設計を仕上げました。コロナ禍による原材料の値上がりや調達難などを乗り越え、2022年7月にいよいよ完成した新蔵は、有力な地酒蔵である梅乃宿酒造にとっても、大きな決断のいる巨額の投資でした。

新蔵の完成に合わせて、梅乃宿酒造ではECの強化にも乗り出しています。

「酒販店に売っていただくB to Bは今後も大切にしたいですが、買い手の生の声が聞こえるB to Cは将来の発展のためにも必須ですし、梅乃宿のファンを増やすという意味でも重要です。駐車場のスペースを大きく取ったのも、関西空港から車で1時間という立地にある蔵なので、観光バスをどんどん誘致して、蔵の直売所でも販売に力を入れるため。新蔵では、蔵見学の受け入れ体制も充実させています。すでに輸出は全体の4割になっており、梅乃宿を飲んだことのある海外からのお客様が新蔵を訪れ、より熱心なファンになって帰っていってくれることにも期待しています」

佳代さんは従業員に対して、「売上というのはたくさんの人達に喜んでもらえた総数。利益はその中でも、社内の自分たちが頑張って生み出した付加価値。売上と利益、両方を増やすことが重要」と繰り返します。その意識を社内に根付かせるために、夏冬の賞与のほか、決算期に経常利益の1割を原資とした決算賞与を支給しています。

「社長がやるべきことは、突き詰めると二つです。一つは決めること(経営判断)。もう一つは、社員が気持ちよく働ける環境を整備することです」と断言する佳代さん。彼女が率いる梅乃宿酒造の今後に、これからも目が離せません。

酒蔵情報

梅乃宿酒造
住所:奈良県葛城市寺口27-1
電話番号:0745-69-2121
創業:1893年
代表者(社長):吉田佳代
製造統括責任者(製造部長):桝永剛
Webサイト:https://www.umenoyado.com/

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