シンガポールの元官僚が日本酒に人生を賭ける理由 - ハンセル・タンさん

2026.03

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シンガポールの元官僚が日本酒に人生を賭ける理由 - ハンセル・タンさん

木村 咲貴  |  日本酒を仕事にした人

当メディア「SAKE Street」を運営する酒ストリート株式会社は、2019年にオープンした東京・浅草橋の酒販店に加え、2022年、シンガポールでの日本酒市場の拡大を目指し、現地法人SAKE STREET PTE. LTD.を設立しました。

ここでディレクター&ヘッドソムリエを務めるのが、同国で生まれ育ったHansel Tan(ハンセル・タン)さん。かつてシンガポールの政府機関に勤務していましたが、日本酒の世界に魅了され、偶然の出会いをきっかけにSAKE Streetで働き始めました。

シンガポールの公務員として働いていたハンセルさんは、日本酒のどんなところに惹かれ、第二の人生を捧げることを決めたのでしょうか。新たな市場として成長し続けるシンガポールの日本酒事情や、SAKE Streetでの活動もあわせてお話を聞きました。

日本酒の沼にハマった官僚時代

官僚時代から日本酒イベントを手伝っていたハンセルさん
官僚時代から日本酒イベントを手伝っていたハンセルさん

大学卒業後、兵役を終えたハンセルさんは、国家公務員として財務省や保健省などに勤め、医療・財政・教育に関する政策立案を担当していました。

日本酒を本格的に飲み始めたのは2014年ごろ。かつて日本食レストランで飲んだ熱燗に苦手意識を持ち、日本酒へよくないイメージを持っていたというハンセルさん。しかし、折原商店Sake Mamaといった専門的な業者の扱う日本酒に出会ってから、その魅力に惹きつけられていきました。

「それまでは酔うために友達とビールを飲むくらいで、心からお酒をおいしいと思ったことはなかったんです。そんな中で日本酒を飲んで、初めておいしさと興味を感じました。そのころ、娘がまだ小さかったんですが、日本酒なら、飲んだ翌朝でも6時に起きて彼女の世話をできたんです。頭痛もまったくなくて、『日本酒は自分に合っているんだ』と気づくきっかけになりました」

専門店に出会い、「なぜこのお酒はこんなに軽やかでフレッシュなんだ?」「このお酒とこのお酒はなぜこんなに違うんだろう?」という疑問を持ち、味わいの理由を学ぶうちに、いろいろなお酒を試すようになりました。彼にとって、Sake Mamaの共同創業者であるチャールズさんがよい師匠になってくれたといいます。

「チャールズさんは、『このお酒が好きなら、同じスタイルのこのお酒を飲むといいよ』と、辛抱強く、丁寧に教えてくれました。当時のシンガポールには正式な日本酒講座もほとんどなかったので、彼が私の先生のような存在でした

スマートフォンに保存されている日本酒の写真
スマートフォンに保存されている日本酒の写真

スマートフォンの中には、10年以上の期間をかけて飲んだ約3000もの日本酒の写真が記録されています。

「ラベルが読めないので、とにかく飲んだ日本酒を全部撮影して記録してきました。写真を見ると、飲んだ場所や味のイメージをすぐに思い出すことができます」

個人で日本酒のテイスティング会などを開催していたハンセルさんですが、2020年にSSA(酒ソムリエ協会)が運営するSake Sommelierの資格を取得。続けて、国際唎酒師、Sake Scholar、酒匠など取得していきました。

「興味があって取っている部分が大きいですが、シンガポールには資格を重視する文化があります。資格を持っていることで、『本気でやっている』と理解され、信頼してもらえるんです

SAKE Streetとの出会いから始まった第二の人生

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2023年、20年にわたるシンガポール政府での勤務を終えたハンセルさんは、次の職場を見つけるまでの休職期間に、日本酒バーのカウンターでソムリエの仕事を始めました。そんなとき、現地法人の仕事でシンガポールにやってきていたSAKE Streetの藤田利尚代表がバーを訪問。ハンセルさんの知識と情熱に感銘を受けた藤田さんは、「一緒に働かないか」と声をかけます。

「トシさん(藤田さん)に、SAKE Streetが輸入している銘柄を飲ませてもらったんです。『神蔵 七曜 純米』(松井酒造)と『銀シャリ 特別純米酒』(白杉酒造)でしたが、口にした瞬間、『いままで飲んだ日本酒となんでこんなに違うんだ?』と衝撃を受けました」

当時、まだシンガポールでは流通していなかったモダンでジューシーな酒質に、「自分がSake Mamaから日本酒を教えてもらったように、今度は私がそのおいしさを誰かに伝えるチャンスだ」と感じたというハンセルさんは、すぐに藤田さんの誘いを受け入れました。

シンガポール法人のローカルオペレーション全体の責任者として、ハンセルさんは、営業・物流・人脈づくりなどを担当しています。実店舗はないため、仕事の中心は「会いにいくこと」。卸先の飲食店や、個人のお客さん、そして日本酒ファンのコミュニティを訪問し、エデュケーションやプロモーションをおこなっています。

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WhatsAppなどのアプリでSAKE Streetのコミュニティを立ち上げ、参加者の質問に随時対応しています。私も質問にできるだけ答えますが、ほかのメンバー同士で回答がつくことも多いです。ここで生まれるのはより自然なコミュニケーションで、ビジネスとして“売りたいから答えている”という感じにならないのも良い点ですね」

毎週金曜の夜は、レストランに常駐ソムリエとして入り、お客様に対して日本酒の魅力を伝えています。

「SNSももちろん効果はありますが、やはり顔を合わせて日本酒を味わってもらうのがいちばんの決め手になると感じます。SAKE Streetの商品は、味がとても特別なので、飲んでもらえれば良さが伝わるんです」

人だかりを生むプレゼンテーションの極意は「押し売りしない」こと

イベントではいつも人だかりができる
イベントではハンセルさんのまわりにいつも人だかりができる

ハンセルさんが最も得意とするのが、イベントでのプレゼンテーションです。シンガポールで年に2回開催される国内最大級のイベント「Sake Matsuri」では、SAKE Streetのブースの前に人だかりができるほどだといいます。

「理由は大きく2つあると思います。ひとつは、私が自分で本当においしいと思ったものしか勧めないこと。売上のために押し売りするのではなく、『私はこのお酒が好きだから紹介したい』という自然な姿勢で話せる。それが伝わるのだと思います。

もうひとつは、相手の好みをつかむこと相手がどういう味わいに惹かれるのかを理解して、お酒を選ぶお手伝いをする感覚です。そのおかげか、一度ほかのブースへ行ったのにまた戻ってきて、『ここが一番面白かった』と言ってくれるお客さんがたくさんいます」

ブースを手伝ってくれる日本酒仲間ハンセルさんが伝えているのは、「お客さんが『好きになれる日本酒』を一緒に見つけてください」ということ。

「イベントではまず、『どんな日本酒が好きですか?』から会話が始まります。相手が『フレッシュな感じが好き』と言ってくれたら、『じゃあ生酒が好きかもしれませんね』と、好みの理由を一緒に言語化していくんです。相手の好みから出発して、その人自身が日本酒を理解できるように手助けする。そうすれば、普段行くお店でも自分で好きな一本を探せるようになりますよね。だからこそ、お客様は私たちのところに留まってくれるんだと思います」

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「お客さんが『これ、好きだな』と思える一本に出会えば、結果として売上は後からついてくる」と強調するハンセルさん。2025年秋のイベントでは、2日間で600本の売上を記録しました。

「SAKE Streetが扱う日本酒は、ラベルもデザインも味わいの造り方も、すべてが現代的。お客さんからは、『これ、本当に日本酒なの?』とよく驚かれます。ラインナップが十分に幅広いので、『旨味が好きならこれ』『もっと軽やかなものがいいならこちら』と提案できるのも強みです」

イベントでSAKE Streetのファンになってくれた人には、WhatsAppのグループやサブスクリプションに案内し、継続的にコミュニケーションをとっていきます。

「WhatsAppグループでは、『レストランにいるなら、メニューを送ってください。スーパーや酒屋にいるなら、冷蔵庫の写真を送ってくれたら、選ぶのを手伝います』と声をかけます。相手が送ってくれたものを見て、『あなたの好みなら、このお酒が合うと思いますよ』と提案する。そうするだけで、日本酒がぐっと身近な飲みものになるんです。

月に一度は勉強会を開き、参加者が一本ずつ日本酒を持ち寄って、私をはじめとする詳しい人がその味わいの理由を解説します。日本酒をもっと楽しめる人を増やすために、みんなでレベルアップする場は必要ですね」

シンガポールの人々は、日本酒の体験を求めている

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近年、日本酒の輸出先として大きな伸びを見せているシンガポール。「日本酒は以前からシンガポールにありましたが、味の違いを教育したり、自分で選べるようになる手助けまでをできる人はほとんどいませんでした」とハンセルさん。

彼はいま、シンガポールの人々が、日本酒を通した「体験」を求めていると分析します。その中でも鍵になるのが、ペアリングです。

日本酒はありえないほど旨味が強い飲みものです。たとえば大吟醸はフルーティで綺麗な味わいなので、飲むだけでは旨味の存在に気づきにくい。でも、食べものと合わせた途端、その存在がわかります。うすにごりも単体で飲むとフレッシュで軽やかですが、含まれる滓(おり)に強い旨味があり、料理と合わさると、食べものの味がぐっと良くなる。

ペアリングという言葉がもてはやされていますが、実際にきちんとできる人は多くありません。でも、日本酒はとても簡単なんです。私たちアジア人は、米の旨味が体に染み付いていますから。日々食べているお米を日本酒に置き換えるだけで、味わいが理解しやすくなる。それを言葉で説明するのは難しいので、“体験”してもらうのが重要なんですよね

そんなハンセルさんの目標は、シンガポールのレストランで、人々がワインと同じように日本酒を注文する未来を実現すること。

「日本酒を扱うレストランはまだまだ少なく、日本酒を知っている消費者も少ないというのが現状です。私は、日本酒はワインと同じくらい認識される存在にまで成長できると信じています。そのためには『言語』が大きな壁として存在します。ワインなら、誰もが『ピノ・ノワールが好き』『シラーが飲みたい』と言えますよね。日本酒も、『私は雄町が好き』『長野のお酒はこういう味』と、自然に言える人が増えていく必要があります」

そのために、コミュニティに関わる人々を中心に、熱心なコミュニケーションを欠かさないハンセルさん。「本気でSAKE Streetがやっていることを信じているから、この仕事を続けられる」と熱を込めます。

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「イベントで日本酒を飲んで、目を輝かせる人を何人も見てきました。『本当に日本酒?』と心から驚いているあの表情を見ると、まだこの国には日本酒を知らない人がたくさんいて、これからも伸びる余地が大きいと感じます。

“日本酒オタク”と呼ばれることもあります(笑)。でも、それでいいんですよ。これからもずっと、日本酒のどこが面白いのか、なぜ自分が10年以上もハマり続けているのかを人々に伝え続けたいと思っています」

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