2023.02
28
日本酒から、クラフトサケへ。愛する酒造りへの再挑戦 - 平六醸造 代表・平井佑樹さん (前編)
かつて、酒蔵の蔵元であり、醸造家として酒造りをしていた平井佑樹(ひらい・ゆうき)さんが、2023年、岩手県の紫波町に新しい醸造所「平六醸造(ひらろくじょうぞう)」を立ち上げます。
造るのは日本酒(清酒)ではなく、近年増えている「クラフトサケ」という新しいジャンルのお酒です。日本酒の造り方をベースに、発酵段階で副原料を加えることで、新しい味わいを生み出します。
一度は酒造りの道を離れることを決意したにもかかわらず、再び酒造りを始める平井さん。そこにはどんな背景や想いがあるのでしょうか。醸造所を建設予定の日詰平井邸を訪ね、お話を聞きました。
日詰平井邸と酒造り
“10年に一度”と呼ばれる寒波が日本を遅い、岩手県もまた深い雪に覆われた1月某日。ケヤキやサルスベリなどの多彩な木々が生えそろうという庭園は一面真っ白に染まっていました。
「小さいころから、年に1度、親戚一同がここ集まるのが恒例行事でした。そのころは、何も考えずに廊下で紙飛行機を飛ばしたりしていましたね。今も、その時の紙飛行機が天井に挟まっているんですよ」
1921(大正10)年に完成した日詰平井邸は、伝統的な町家構造に、西洋風の意匠を合わせた独特の建築が評価され、2016年には国指定重要文化財に指定されました。
建設を手掛けたのは平井さんの高祖父にあたる12代目・平井六右衛門(ひらい・ろくえもん)氏。代々受け継がれてきた醸造業に合わせて、衆議院や貴族院の議員も務めた六右衛門氏は、政治仲間であった原敬(はら・たかし)氏の内閣総理大臣就任を記念して、彼を迎え入れるためだけにこの邸宅を建てたといいます。
母家の入口をくぐると、店舗としてお酒や醤油を販売していた板敷と土間のスペースが広がっています。庭を抜け、敷地内を北へ進むと、かつて造りに使われていたという2棟の蔵が現れます。平井さんは、先祖が酒造りをしていたこの空間で、「平六醸造」として再びお酒を造ろうとしていました。
平井家が酒造りを始めたのは、江戸時代中期の1772年、6代目・平井六右衛門の代でのこと。大正期には屋号を「平六商店」とし、紫波(しわ。当時は「志和」と表記)の地で清酒や醤油、味噌の醸造・販売をおこなってきました。
より都会へと販路を広げるため、盛岡に進出した平六商店ですが、酒蔵の機能をすべて移転したころ、戦時中の酒造規制から県内の複数の酒蔵とともに「盛岡酒造」へと統合されます。平井家がここから独立したのは戦禍の落ち着いた1954(昭和29)年のころ。1968(昭和43)年には新聞で公募を行い、「菊の司酒造」へ名前を変えました。
「お酒が造りたい」という思いとともに
平井家の16代目として生まれた平井さんは、蔵元という酒蔵の経営者側の立場でありながら、幼いころから酒造りへの強い興味があったと話します。
「自由研究で酒造りについてまとめたことがあるんです。いつも遊んでもらっていた杜氏さんに蔵を案内してもらって、麹の造り方や発酵の仕組みを教えてもらいながら、酒造りはすごい仕事だし、蔵人はかっこいい職業だと思ったんですよね。そのころから、『お酒を造ってみたい』という想いがあって、卒業文集にも『菊の司酒造の社長になる』と書いていたんです」
その想いは、皮肉にも、大学時代に味わった“悔しさ”によってさらに強くなります。
明治大学商学部に在学中、授業の一環で日本酒のブログを立ち上げたことをきっかけに、ほかの酒蔵や酒販店と交流を深めるようになった平井さんは、親交のある酒蔵を集めて日本酒イベントを開催しました。ところが、ほかの酒蔵のお酒は賑わっているのに、平井さんのブースだけまったく人が来なかったのです。
さらに、とある酒販店での投票企画が平井さんに厳しい現実を突きつけます。
「全国各地の日本酒をお客さんが自由に飲んで、好きだと思った瓶にシールを貼るという企画だったんです。ところが、自分の蔵のお酒を見てみると、一枚もシールが貼られていない。自分のシールだけ貼って、逃げるように帰ってきました。ほかの蔵はシールだらけになっているのに、悔しかったですね。
僕は実家のお酒が大好きだったんですけど、少なくとも都会の人には合わないものなのかもしれないと思いました。それで、ますます『自分がお酒を造らなきゃ』と感じるようになったんです」
酒蔵の体制の変革、そして退職
大学を卒業後、2012年に実家の酒蔵に戻った平井さんは、家業に携わりながら、“自分のお酒”を造るために岩手県工業技術センターで試験醸造を始めます。
「蔵元が乗り込んできて、『試験醸造をさせてください』というケースはなかなかないので、驚きましたね」と話すのは、同センターの醸造技術部で平井さんに指導をしてきた佐藤稔英(さとう・なるひで)さんです。
「酒蔵の酒造りというのは、歴史上の経緯があってレシピが決まるものなので、1年や2年で変えられるものではありません。家業に関わるうちに、現場には現場の理由があることもわかったようで、それを理解したうえで破壊しようとチャレンジしていました」(佐藤さん)
試行錯誤を繰り返しながら、2017年には杜氏制を廃止し、社内での酒造りをスタート。全国新酒鑑評会での金賞受賞、International Wine Challengeでのゴールド受賞など、さまざまなコンテストで高評価を獲得するようになります。
「自他ともに『おいしくなった』と評価されるようになってからは、社員みんな、どんどん楽しくなってきた」と平井さんは当時を振り返ります。
社員制への移行も合わせ、堅調に実績を重ねて3年目の2021年。菊の司酒造は、経営難から事業譲渡を行い、翌2022年の1月をもって、平井さんも酒蔵を退職することになりました。
酒造りによって、100年の歴史が蘇る
酒蔵から離れてから、平井さんは日詰平井邸で活動を始めます。竣工から100年を越えた日詰平井邸はすでに住居としては使われておらず、老朽化により維持が難しくなっていました。
手放すという選択肢もあったといいます。しかし、紫波の人々に守られてきた家なのだから、一族だけではなく、“みんなの家”として活用したい。そう考えた平井さんは、日本の歴史ある暮らしや季節の移ろいに触れながら人々が交流できる場所として、平井邸を一般開放しました。
春から秋にかけては、町で行われる朝市における憩いの場になり、地元のカフェや飲食店、アーティストなどを招いてイベントを開催。ヨガ教室や古本市など、地域のコミュニティ活動の場として活用されるほか、フォトウェディングのロケーションとしても重宝されています。
「大切にしているのは、この家で“過ごしてもらう”こと。いわゆる観光地として、ただ眺めて帰るのではなく、たくさんの人に過ごしてもらって、そこでご縁やコミュニケーションが生まれるということが、この家をよみがえらせるということなんだと思っています」
ここで行われていたイベントのひとつが、平井さん自身が運営するポップアップ日本酒バー「酒の間(さけのま)」。平井さんが全国の酒蔵からセレクトしたお酒を、訪れた人々にグラスで楽しんでもらうというものです。
実は、紫波町では近年ワインやサイダーの醸造所が立ち上げられるほか、廃校となった小学校を「酒の学校」として利活用するプロジェクトも進んでいます。そんな“酒のまち”にある、かつての造り酒屋で、お酒を提供しよう──そんなアイデアから、企画をスタートした平井さんにお客さんから掛けられたのは、意表を突くような言葉でした。
「日本酒イベントに参加したお客さんが、よく、『お酒を造ってほしい』と言ってくれるんですよ」
一度は、「もう二度と酒造りはできない」と覚悟したという平井さん。日本では、清酒製造免許は新規に発行されておらず、歴史的に続く酒蔵としての権利を所有または譲受しない限り、日本酒を造ることはできません。
そんな中、最近若い造り手のあいだから生まれたのが、「その他の醸造酒」の免許で製造することができる、通称「クラフトサケ」というジャンルのお酒です。クラフトサケとは、清酒の造り方をベースとしながら、発酵過程で副原料を加えたもので、従来の日本酒造りの免許ではできない自由な造りが可能になるとして注目を集めています。
また、2022年という一年は、平井さんにとって、日詰平井邸の活動と並行して酒米作りを始めた年でもありました。県内の赤武酒造や浜千鳥に納める酒米を育てる中で、平井さんの中には、「自分の造ったお米でお酒を造ってみたい」という情熱が芽生えていました。
がらんどうとなった二つの大きな蔵。紫波町の人々のための活用方法を模索していた平井さんの中で、地域へ貢献したいという利他的な想いと、自身の情熱が重なります──この空間でお酒を造ることで、日詰平井邸は本当の意味で100年の時を超え、現代によみがえるんじゃないだろうか?
紫波という酒のまちの、かつて酒造りがおこなわれていた日詰平井邸で、再び酒を造る。後編では、平井さんの酒米作りへの挑戦と、平六醸造で造るお酒についてお届けします。
(写真協力:紫波町)
後編はこちら
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