発見から160年。「雄町」の歴史をたどる

2019.03

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発見から160年。「雄町」の歴史をたどる

市田 真紀  |  風土を映す酒米の世界<雄町編>

酒米品種の最高峰のひとつとして、造り手、飲み手ともに高い人気を誇る「雄町」。 1859年に発見され、100年以上にわたって栽培され続けきた背景には、さまざまな物語があります。

まずは、その一端をひも解くところからスタート。 「雄町」が多くの人に愛される理由とは。

多くの酒米に受け継がれし「雄町」の血

大粒で心白の発現が良好な米は、酒造好適米として多くの酒蔵で使われています。このような米は高精米に向き、吸水性に優れることから、良質な麹を造るのに適していると言われています。

また、低温長期型の醪でも溶けやすく、アルコール発酵が順調に進みやすい点も酒造好適米の特長のひとつ。「雄町」はまさにこうした魅力を持ち合わせ、100年以上もの長きにわたり愛されてきた品種です。

高品質な酒造りに求められる特性を兼ね備えた優秀な米として、その後各地でさまざまな品種と交配されてきた「雄町」は、まさに酒米のルーツといっても過言ではありません。たとえば大正12年に兵庫県農業試験場で誕生し、昭和11年に奨励品種に採用された「山田錦」は、「山田穂」と「短稈渡船(雄町の系統)」の交配によって生まれた品種。「五百万石」もまた「雄町」の遺伝子を受け継ぐ「菊水」と「新200号」との人工交配によって誕生しました。このほかにも酒造好適米の約6割に雄町の血が受け継がれていると言われており、「雄町」がいかに優秀な品種であるかを物語っています。

来歴にみる「雄町」の魅力

「雄町」の発祥をひも解くには、今から160年前の安政6年(1859年)までさかのぼらなくてはなりません。

当時の備前国上道郡高島村雄町(現在の岡山市中区高島)の篤農家・岸本甚造(きしもとじんぞう)翁は、鳥取県の伯耆大山を参拝の折、見るからに立派な変わり穂を発見。許可を得て持ち帰った2本の穂から栽培が始まったとされています。 当初は2本の穂にちなみ「二本草」と呼ばれていましたが、その後岡山県内一体に栽培が拡大。酒米としての評判が全国に知れわたると、いつしか栽培地の地名である「雄町」の名が広まっていったのです。

「雄町」発祥の地を訪ねると、そこには「雄町」の発見と育成に貢献した岸本甚造翁の石碑があり、「雄町米元祖」の文字とともにその功績を称える文言が刻まれています。そして、そのおひざ元である高島地区では、現在も発祥地の誇りを持つ生産者たちによって「雄町」の栽培が行われています。

100年以上続く「雄町」栽培の歴史

「雄町」の発見から160年。イネの主流が在来品種から人工交配による品種へと取って代わっても、「雄町」は現在に至るまで人工交配による品種改良や混血から守られてきました。

背丈が160cmにも及び、長い芒(のぎ)をもつ「雄町」の立ち姿は、見る者を圧倒する勇壮さですが、その一方で栽培は非常に難しい上に天候に翻弄されやすい、いわば生産者泣かせの品種でもあります。それでも一度も途切れることなく栽培され続けてきた背景には、「雄町」を誇りに思い、脈々と種をつないで来た地元・岡山の酒造会社や生産者らさまざまな人たちの努力と功績があったのです。

具体的な事例として

  • 赤磐郡軽部村長(現赤磐市)の加賀美章氏が私費を投じて行った「雄町」の宣伝活動
  • 利守酒造による「雄町」復活栽培への取り組み
  • 「雄町」を求める岡山県内外の酒造会社の声を受け、再び作付拡大へ
  • 「雄町サミット」開催(平成20年~) などがあげられます。

それぞれのエピソードは、別記事にてあらためて紹介します。

まとめ

一時は3haほどにまで激減した「雄町」の作付面積ですが、生産者組織などによる継続的な努力によって現在は約550ha(平成29年産)前後で推移。今もなお、多くの醸し手を魅了し、彼らの手で造られた酒は飲み手を惹きつけてやみません。

そんな「雄町」には、まだまだ秘められた物語や魅力が眠っています。 その魅力に、今後さまざまな角度から迫っていきます。 どうぞお付き合いください。

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