蔵付き酵母とは?:日本酒の多様化を支える”自然派”酵母、その歴史とこれから

2025.11

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蔵付き酵母とは?:日本酒の多様化を支える”自然派”酵母、その歴史とこれから

熊﨑 百子  |  日本酒を学ぶ

日本酒の醸造に欠かせないのが「酵母」という微生物の存在です。日本酒造りにおける大きな役割はアルコール発酵をすることですが、酵母が生み出すのはアルコールだけではありません。日本酒の味や香りに関わるさまざまな成分を生み出しており、どの酵母を使うかは酒質の形成における重要な選択の一つであると言えます。

その中でも近年、ワインでは「ナチュラル(ナチュール)」と呼ばれる、自然派の日本酒でよく出てくるキーワードが「蔵付き酵母」です。今回の記事では、蔵付き酵母について、その特徴や歴史と現代の取り組みを紹介していきます。

蔵付き酵母とは

「蔵付き」とは、「その酒に棲みいている」という意味です。つまり、「蔵付き酵母」とは、古くからその酒蔵、酒造場に棲みついている酵母のことを指し、「家付き酵母」や「野生酵母」と表現されることもあります。

現代の酒造りにおいては、ほとんどの酒蔵で日本醸造協会が頒布する「きょうかい酵母」などの、培養された清酒酵母を使った酒造りがおこなわれています。きょうかい酵母は、優良な酵母を選別し純粋培養したもので、目標とする酒質や安定的で効率の良い生産に必要な要件を備えています。

きょうかい酵母のような培養酵母を添加しない酒造りでは、蔵付き酵母を取り込んで増殖させます。そのほか、清酒酵母を添加する場合に意図せず蔵付き酵母が取り込まれ、酒質に影響を与えることもあります。蔵付き酵母は、一軒の酒蔵に棲みついているのが1種とは限らず、その蔵の酵母がどのような特性を持っているかを明らかにする研究はほとんどおこなわれていません。そのため、酒質を完全にコントロールするような酒造りよりも、その蔵ならではの味わいを表現するのに向いているといえます。

蔵付き酵母の歴史

1. 影の立役者「蔵付き酵母」

水耕稲作の渡来とともに始まったとされている米を使った酒造りは、微生物の存在すら知られないまま続いてきました。当然、現在のような人工的な酵母の添加はおこなわれておらず、麹や容器、道具に付着した蔵付き酵母が自然と増殖することでアルコール発酵を担っていました。

中世まで、酒造りは人々の経験と勘に頼っておこなわれ、試行錯誤を繰り返しながら、最適な醸造方法が模索されていました。しかし江戸時代になると、酵母を培養する工程である酒母の製法が確立されていきます。特に「生酛造り」として今日まで受け継がれている製法では、雑菌の汚染を防ぎながら優良な蔵付き酵母を培養することができるようになりました。このようにまだ酵母の存在が認識されていない時代においても、すでに質の高い酒母を造ることが重要視されていたといえます。

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一方で、その蔵に棲みついている蔵付き酵母は、酒造りにとって必ずしも優良なものとは限りませんでした。アルコール発酵能力の低いものや、異常に酸を多く出すものなど、酒造りには適さない場合もあり、発酵が不安定になったり、品質にバラつきが出たり、醸造中に醪が腐ってしまう(腐造)ことも少なくありませんでした。当時の酒の良し悪しは、杜氏の腕と蔵付き酵母の性質に委ねられていたと言っても過言ではありません。

2. 日本酒の近代化と「きょうかい酵母」

明治時代に入ると、日本にも微生物学が伝わり、酵母がアルコール発酵を担っていることが知られるようになりました。清酒酵母は、東京帝国大学農科大学教授古在由来直や醸造試験所の初代技師矢部規矩治らによって研究され、1895年(明治28年)に初めて単離に成功。1897年(明治30年)に東京農科大学紀要にSaccharomyces sake(サッカロマイセス・サケ)として発表されました。

1904年(明治37年)、日本酒の品質、醸造方法を改良することを主な目的として、明治政府が国立醸造試験所を設立すると、酒造りにおける科学的・微生物学的な研究が進みます。清酒酵母の研究に力が注がれ、全国の優良な酒蔵から、安定した発酵力と優れた酒質をもたらす蔵付き酵母を分離。純粋培養をして全国の酒蔵への頒布が始まりました。また、山卸廃止酛(山廃酛)、速醸酒母、高温糖化酒母などの酒母製法も発明され、とりわけ、速醸酒母の出現は、純粋培養した蔵付き酵母の利用を広める一助となりました

1906年(明治39年)に兵庫県・灘の「櫻正宗」の酒母から蔵付き酵母を分離し、限定的な頒布を開始。他にも、京都・伏見の「月桂冠」や広島の「酔心」の酵母が頒布されました。1917年(大正6年)からは「きょうかい酵母」に番号が付記されるようになりました。現在販売されている酵母の中でも、1946年(昭和21年)に長野県宮坂醸造の「真澄」から分離された7号酵母は、戦後の日本酒の基調酵母とされ、現在も最も販売数が多くなっています。

また、1963年(昭和38年)には、島根県にある簸上(ひかみ)清酒の蔵元でできた全く泡のでない醪が醸造試験所に持ち込まれたことで、泡なし酵母の研究も始まりました。ここから、現在では広く普及している泡なし酵母の研究も、蔵付き酵母が元になったことがわかります。

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昭和30年代になるまでは、培養酵母を使うことは一般的ではなく、ほとんどの地域でそれぞれの蔵に存在する蔵付き酵母による酒造りがおこなわれていたため、腐造は後を絶ちませんでした。現在のように培養酵母を広く使うようになった後、酵母の種類が増え、目標とする酒質に合わせて酵母を選択するという段階まで進んだのは、昭和40年代に入ってからでした。

このように、「きょうかい酵母」のような培養酵母は、一定品質の日本酒の安定生産、日本酒の発展に大きく貢献した一方で、蔵付き酵母での酒造りは衰退し、酵母の特性も一定の基準に沿ったものが中心になっていきました。

個性への回帰・蔵付き酵母の可能性

近年、消費者の嗜好の多様化に伴い、酒質もそれぞれの酒蔵の個性が求められています。また、ワインの世界で語られる「テロワール(※)」という概念も日本酒に応用されるようになってきました。

※テロワール:気候・土壌・地形など、農産物や食品の品質や特徴を決定する環境のこと

こうした流れの中で、酒蔵が持つ個性や酒造りの原点回帰への注目が集まり、「蔵付き酵母」が再評価されるようになりました。

秋田県総合食品研究センターでは、2010年より県内の酒蔵から醸造に適した蔵付き酵母の分離選抜を開始し、2012年からそれぞれの酒蔵固有の特徴を具現化した純米酒をシリーズ化して販売する取り組みがおこなわれました。発酵経過や一般成分分析、官能試験の結果から、全国で実用化されているきょうかい6号、901号、1801号などの酵母と比較して香気のタイプが異なる多様な酵母が取得できたといいます。

また、群馬県立産業技術センターの研究チームは、土田酒造株式会社との共同で蔵付き酵母を研究。酵母無添加の醪から酵母を分離してゲノム解析をおこない、独自性の高い新規酵母の発見や、安定生産に活かすという試みがなされています。

クラフトサケを醸す平六醸造(岩手県)では、蔵独自の酵母を使った商品を開発しました。岩手県工業技術センター協力の元、国の重要文化財に指定されている日詰平井邸の造り蔵から蔵付き酵母を採取。奇跡的に一株だけ見つかった酵母「アカツキ」を培養して使用し、安定した品質の酒造りを実現しています。

このように、清酒酵母の差別化のため、各県の公設研究機関だけでなく、企業独自の研究・開発もが進められています。こうした蔵付き酵母で醸された日本酒は、唯一無二の個性が評価される傾向にあります。

まとめ

アルコール発酵という大きな役割を担う酵母。中でも蔵付き酵母は、日本酒の発展と多様化にとって必要不可欠な存在でした。今日の日本酒造りを支えるきょうかい酵母や泡なし酵母も、元を辿れば酒蔵の蔵付き酵母を研究、培養したものです。

安定的な生産のために一度は失われてしまった酵母の多様性ですが、今後のさらなる研究や技術の進歩によって、蔵付き酵母の可能性が広がり、そう遠くない未来に、これまでにない味わいの日本酒が生まれるかもしれません。

参考文献

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