
2025.11
18
100年先の日本酒を見据えて。地酒も地域と共に変化する - 福司酒造(北海道・釧路)
2025年10月なかば。飛行機から降り立った釧路はすでに肌寒く、本州よりもひと足早い次の季節の訪れを告げていました。
同じ道内の札幌から車で4時間も東にある釧路。福司酒造・製造部部長の梁瀬一真さんに、阿寒湖や摩周湖、鶴居から釧路市という走行距離200キロメートル以上のエリアを案内してもらっていると、行く先々で彼が声を掛けられる場面に遭遇します。
「昔の釧路の空は、いつも薄い雲がふわっとかかっていて、どこまでも平らだったんです。でも最近は、本州のように、積乱雲がもくもくと立ち上がるのを見るようになりましたね」
運転席からフロントガラスに映る景色を見つめながら、そうこぼす梁瀬さん。「笑えるくらい涼しい街」と言われてきた釧路で、いまどんな変化が起きているのか。そして、その変化の中で、地酒蔵である福司酒造はどんな課題と向き合っているのでしょうか。
釧路唯一の酒蔵・福司酒造
下っ端からいきなり孤立。素人集団での酒造り
福司酒造のはじまりは、北海道開拓から50年後の1919年(大正8年)。当初は、酒類、ラムネなどの清涼飲料、食品を販売する問屋業として創業しました。そんな折、取引先の大阪の酒蔵から「釧路はこんなに寒くて水もきれいなんだから、自分たちでも酒を造ったらどうか」と勧められたのがきっかけで、1922年から現在の場所で酒造りを開始します。
幼いころ、祖父母の家に預けられることが多かったという梁瀬さん。3代目蔵元にあたる祖父や現在4代目として代表を務める叔父の仕事ぶりを見ながら、小学生のころには「いつかここで働く」と考えるようになったといいます。
そして東京農業大学を卒業するころ、祖父の病気をきっかけに蔵へ戻ることを決意。「外の世界も見ていないのに、いま来ても戦力にならない」と家族からは反対されたそうですが、酒類総合研究所で半年間研修をしたのち、2006年に福司酒造へ入社します。
「最初はいちばん下っ端でした。いわゆる“追い回し”と呼ばれる雑用係ですね。そのころは学生気分が抜けていなくて、製造に口を出したり、『自分はこういうお酒を造りたい』と企画ばかり考えていて、『まずは自分の仕事をちゃんとやれ』と注意されることが多かったです。そのせいで、昔からいる蔵人たちとの関係がうまくいかなくて。
3年目くらいで、『もし将来的にリーダーの立場につくなら、チームの仲間とうまくやらなければいけない』とようやく気づいて、それからは下働きを本当に一生懸命やるようになりました。掃除でも準備でも、全部自分からやるようにしましたね」
ところが2010年、杜氏を含む従業員が辞めてしまい、製造部には梁瀬さんひとりが残されます。
「まだ追い回ししかできない状態で、ですよ」と苦笑する梁瀬さん。取り急ぎ、当時瓶詰めや配達を担当していた社員に来てもらい、二人で回しながら蔵人を募集。そこから2015年、製造メンバーは徐々に増え、5人となりました。
「僕以外は酒造りについて何も知らない状態。まさに“素人集団”でした」
一人では指導もしきれないと判断した梁瀬さんは、社長に相談し、外部から杜氏を雇うことになります。ベテラン杜氏に酒造りを教わりながら、新人メンバーたちとのチームづくりも進め、徐々に「チーム福司」が形成されていきました。
「杜氏」は不在。福司はチームで造る
新体制から5年経ち、チームとしてようやく形になってきた2020年。コロナ禍により製造量が減少したタイミングで、外部杜氏を呼ぶことはやめ、梁瀬さんが「製造部部長」として責任者を引き継ぐかたちになりました。
あえて「杜氏」という肩書きを使わない理由として、梁瀬さんは次のように話します。
「『杜氏』って、どうしても呼び名がひとり歩きして、メディアに取り上げられるのはその人だけになってしまう。ほかのメンバーだって同じように働いているのに、スポットライトが当たるのは杜氏だけ。でも、酒造りってチームでやるものなんです。僕が部長になってからは、『全員に光が当たる蔵にしたい』と心がけています」
何度かの入れ替わりを乗り越え、現在は6人の体制となった福司。梁瀬さんが公式サイトで10年近く続けているブログ「北海道 釧路の地酒 『福司』 若僧蔵人の醸し屋日記」では、「醸し屋」こと梁瀬さんをはじめ、蔵のメンバーがニックネームで登場します。
左から、入社2年目のナノイーさん。前職は商社の営業で、自分の好きな仕事をしたいと転職してきました。福司酒造の取り組みに共感し、「自分の子どもが大きくなるときに、地域に貢献できるような会社で働いていたい」という気持ちから入社してくれたそうです。
その隣が、4代目の息子で梁瀬さんのいとこであるエースさん。梁瀬さんいわく、「陰キャの多い製造部メンバーの中では社交性が高いのが特徴」だとか。
右が、麹屋のクリストファーさん。大学卒業後に新卒で入社。もともと家具職人を目指していたこともあり器用で、蔵のメンテナンスが得意だそう。
こちらの左から酛屋のMジュン氏。前職は車のディーラーで、30代で「好きなことを仕事にしたい」と福司へ転職してきました。趣味はアウトドアで、メンバーで行く山菜採りでは隊長を務めています。
中心が分析・濾過担当のツヨシ氏。最初は出荷管理を担当していましたが、梁瀬さんが製造部で一人になったときに異動した古株。若い頃はバイカーで、蔵に赤いバイクで通勤していたとか!?
全員北海道出身で、メンバーの中には、梁瀬さんのブログを読んだのがきっかけで門戸を叩いた人も何人かいるそうです。
釧路の地酒、東京への進出
「釧路なんだから福司を飲もう」
生産量の9割が地元で流通している福司。いまでこそ「釧路の地酒といえば福司」という空気が定着していますが、梁瀬さんが蔵に戻ったばかりのころは、根室市の「北の勝」(碓氷勝三郎商店)のほうが市場を占めていたのだとか。
「当時は、『福司より北の勝の方が美味しい』と言われることも多かったですね。なので、営業を兼ねて飲食店に顔を出すようにしたんです。地元のイベントでも、飲み会でも、誘われたらとにかく参加して、人脈をつくるようにしていました」
そうするうちに、飲食店の人々から「この前のあのお酒、美味しかったよ」「うちでも置いてみたい」と言ってもらえるようになり、次第に応援してくれる人が増えていきました。
「釧路の夕日が『世界三大夕日』として話題になったころ、ある飲食店で『夕焼けハイボール』というメニューが生まれて。『せっかく釧路の名物として出すなら、地元の酒を使おうよ』といって、福司の辛口酒を使ってもらうことになったんです。また、福司のために、地酒と貝焼きの専門店を開いてくれた人もいました。そのお店は複数の系列店舗を展開していたんですが、すべてのお店で福司を置いてくれていたんですよ」
梁瀬さんの地道な努力が実ってか、「釧路なんだから福司を飲もう」という空気が広がっていき、仕込み数量は徐々に増加しました。
「入社当初は、生産量の8割を普通酒が占めていたほど、地元では普通酒がよく飲まれています。漁師町の釧路に合わせて、『飲み飽きしない』『するする飲める』というのが福司の特徴。地元の食文化と一緒にあって、毎日のように飲んでも疲れない、“日常にあるお酒”として愛飲していただいています」
そんな福司が釧路の外へ進出しようと考えたのは、新型コロナウイルス感染症による経営状況の変化が大きく影響していました。
「以前から、製造側は新しい商品にチャレンジしたいという思いがあったんですが、経営陣になかなか首を縦に振ってもらえなかったんです。流通面の制約が大きかったことも影響していたと思います。それが、コロナ禍で新しいことに挑戦しなければならない方向へ空気が変わって。
コロナ禍はもちろん大変でしたが、挑戦のチャンスにもなったと思っています。造りが減った分、一つひとつの仕込みと向き合うようになり、『こういう仕込みをすると、こういう結果になる』というデータを取れるようになっていきました」
100年後の酒造りを見据えた新ブランド「五色彩雲」
そして2023年にリリースされたのが新ブランド「五色彩雲(ごしきのくも)」です。
「釧路の外に出るにあたり、『福司酒造にしかない強みって何だろう?』ということを考えました。北海道の蔵は比較的新興で、歴史の厚みではどうしても本州の蔵に敵わない。でも、逆に言えば、本州の蔵にとってはマイナスになり得るようなことが、北海道ではプラスになる可能性があるかもしれないと考えたんです」
「たとえば北海道では、気候変動により、かつてここで育たなかった山田錦を育てられるようになってきています」と話す梁瀬さん。そうした変化を前向きに捉えて、100年後の酒造りを見据えた課題を立てるのが、『五色彩雲』の出発点だといいます。
「北海道って、これまでジャガイモや玉ねぎ、魚介類など、自然に恵まれた素材そのものを特産品として扱ってきましたよね。でも東京や京都や大阪のような地域は、素材をどう加工して、どう価値を高めていくかという次のステージに進んで、いまの文化を築いてきたと思うんです。
北海道も、これまでの“素材の力”を使い切っただけで、次のステップ──工夫するという段階に入っただけなんじゃないか。そう考えれば、いまの変化には可能性を感じられるんです」
例えば、「Nusamai」は気候変動で北海道産米が変化していくことを前提に、吟風という酒米を用い、「今ある地元産米のポテンシャルをどう引き出すか」というテーマで醸す一本です。一方、 「さらに柔軟な原料選択が必要になるかもしれない」という考えのもと、「Mashu」では山田錦を使っています。また、将来ますます求められる酒質として、「Ashiri」は白麹を使い、「Jiri」は低アルコールに挑戦しています。
「五色彩雲という名前なので、『5種類あるんですよね?』とよく聞かれるんですが、5つ目は構想中です。次は乳酸菌をテーマに、日本酒の中での乳酸菌の新しい役割を模索しようと思っています。そのためには、まず使う乳酸菌を選抜する必要があるので、少し時間がかかりそうです」
変化する釧路。地酒が果たすべき役割とは
東京に進出し、首都圏の飲食店や消費者からフィードバックをもらえるようになったのは、福司酒造にとって大きなことだったといいます。
「これまではいわば井の中の蛙状態でしたが、東京の飲食店さんや酒販店さんから『美味しい』と言ってもらえるようになりました。今までは『時代遅れな酒を造っているんじゃないか』と思うこともありましたが、『ちゃんと同じ時代の中で造っているんだ』と実感できました」
※東京でのイベント「若手の夜明け」出展に関する梁瀬さん執筆記事はこちら:
北海道の“地酒”の再定義 - 「若手の夜明け」で見つけたもの
一方で、「造り手の感覚では、もう『人気が出る日本酒の味』はすでに市場で一巡している」と話す梁瀬さん。流行に合わせるのではなく、新ブランドを通して「次の時代の味わい」を模索するのが福司酒造のやり方です。
「最近、釧路にいて大きく感じるのは、気候の変化ですね。夏がとにかく暑くなりました。ここ数年は、クーラーがないと過ごせない日もあるくらいで、『釧路でもこんなに暑くなるのか』と驚いています。
海の様子も変わっていて、昔は秋刀魚なんて近所の人から『またもらっちゃった』っていうくらい当たり前に手に入っていたのに、今では高級魚です。『あの頃は食べきれないほどあった』という魚が、高くて買えなくなってきています」
今回の取材では、メガソーラー問題が報じられている釧路湿原の現場も通りかかりました。そうした変化の中で、自分たちの酒造りはどうあるべきなのか? 梁瀬さんは考え続けています。
「単に蔵が存続することを目指すんじゃなくて、“必要とされ続ける存在”であることが大事だと思っています。地域の特産品が変われば、それに合わせて製法やコンセプトを見直す。地域の変化や要望に合わせて柔軟にお酒を変えるような、地道な変化を積み重ねていくことが、地酒としての責任なんじゃないかと」
大きな自然に恵まれた釧路という地域の一部として、福司酒造は存在している。そんなイメージを体現した福司のお酒は、東京の酒販店やイベントにて、遠く離れた地域を伝えるメッセンジャーとしても機能しています。
「理想を言えば、『なんで福司ってこんな味なんだろう?』と思ってもらえる存在でありたいですね。『美味しい』と言ってもらえるのはもちろんうれしいけど、釧路という土地に密着して、そこに残っている味として存在できていたら、それがいちばんいいと思うんです。土地性が感じられるお酒であることが、福司というブランドの本質だと思っています。
一方で、それだけではきっと残り続けられない。だからこそ、五色彩雲のように新しい発想を持ち込みながら、時代に適応できる企画力や技術力を磨いていく必要があると思っています」
自然の恵みをそのままに享受するのではなく、移ろう環境に耳を澄まし、次の100年を見据えて酒を醸す──福司酒造のその姿勢こそが、釧路という地域の“いま”を最も誠実に映し出しているのかもしれません。
酒蔵情報
福司酒造
住所:北海道釧路市住吉2丁目13-23
電話番号:0154-41-3100
創業:1919年
社長:梁瀬之弘
製造部部長:梁瀬一真
酒蔵Webサイト:https://www.fukutsukasa.jp/
「五色彩雲」ブランドサイト: https://goshiki-no-kumo.com/
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