日本酒偉人伝 -「山廃造りの創始者」嘉儀金一郎

2025.02

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日本酒偉人伝 -「山廃造りの創始者」嘉儀金一郎

瀬良 万葉  |  日本酒を学ぶ

山廃は正式名称を「山卸廃止酛」といい、1909年に開発された酒母づくりの方法です。自然の乳酸菌の働きを活かす山廃造りは、現在も多くの酒蔵で使われている手法であり、その豊かな味わいは消費者にも愛され続けています。

今となっては「山廃=伝統的な手法」というイメージがあるかもしれません。しかし山廃造りの発明は、現場の大きな課題を解決しながら時代の要請に応える画期的なものでした。

本記事では、そんな山廃造りの創始者「嘉儀金一郎」に焦点を当て、その生涯を振り返りながら山廃造りについてご紹介します。

嘉儀金一郎の生涯

島根県に生まれ、東京で化学を学ぶ

1873年(明治6年)2月5日、嘉儀金一郎は島根県島根郡内中原町(現:松江市内中原町)にて、島根県職員として働いていた父・丹治と母・クワの長男として誕生しました。

幼少期から学問に親しんだ金一郎は、1892年(明治25年)、当時最先端の化学を学べる東京工業学校(現:東京科学大学)の応用化学科に入学。1895年(明治28年)に同校を卒業後、古河鉱業の足尾銅山に入社し、実践的な経験を積みます。

松江税務管理局での挑戦

1899年(明治32年)、金一郎は大蔵省に入省。故郷である松江市の松江税務管理局(後の松江税務監督局)に赴任しました。当時、酒税は国税収入の第一位を占める重要な財源でしたが、後述するように酒造業界では腐造問題が深刻化していました。

着任後まもない1901年(明治34年)、「出雲国私立清酒品評会褒賞授与式」において、金一郎は酸度測定の意義や測定方法を紹介。酒質向上のための化学分析の重要性を説きました。

大蔵省醸造試験所で山廃を開発

1904年(明治37年)、東京に醸造試験所が創設されると、金一郎は醸造科担任技師として赴任。ここで彼は、後に日本酒造りを大きく変える研究に着手します。

1909年(明治42年)には「山卸廃止試験第1回報告」、1911年(明治44年)には「第2回報告」を発表。この功績により1916年(大正5年)には賞勲局より銀杯を賜りました。

また1917年(大正6年)からは、会津若松の末廣酒造での指導も開始。年40日という長期の技術指導を3年間にわたって行い、現場での実践的な普及活動に尽力しました。

広島での活躍を経て、晩年も銘醸蔵に貢献

1919年(大正8年)、同郷の野白金一の後任として広島税務監督局鑑定部長に就任。在任中は広島県工業試験場初代醸造部長の橋爪陽氏とも親交を深め、国と県の調整役として広島県の酒造組合の発展に貢献しました。

1923年(大正12年)に大蔵省を退職後は、日本酒造株式会社での勤務を経て、1924年(大正13年)には銘醸蔵として知られる山邑酒造(銘柄:櫻正宗)の技師長として招かれます。1938年(昭和13年)まで務めた後、1945年(昭和20年)、72歳でその生涯を閉じました。

嘉儀金一郎による山廃造りの開発

時代の要請、現場の課題

金一郎が松江税務管理局に赴任した1899年当時、酒税が国税収入の首位を占める一方で、日本の酒造業界は大きな転換期を迎えていました。発酵の科学的な理解や、衛生環境の整備が進んでいなかった現場では、製造中の日本酒が乳酸菌の混入などの影響で腐敗してしまう「腐造」の発生が深刻な問題となっていたのです。こういった背景のもと、明治政府は安定した醸造のため、伝統的な技術に加えて欧米の科学的手法の導入を急いでいました。

当時、灘など主要な産地では「生酛(きもと)」という昔ながらの手法で酒造りが行われていましたが、この手法では、蒸米と麹をすり潰す「山卸」という作業に多大な労力を要しました。一方、山陰地方で主流だった「水酛」という手法は、自然環境の影響を強く受け、腐造のリスクが高いという課題を抱えていました。

一挙両得の画期的発明

1909年11月、金一郎は「山卸廃止試験第1回報告」を発表します。その核心は、仕込みの約3時間前に水と麹を混ぜ、麹の酵素をあらかじめ水中に溶け込ませる「水麹」の使用でした。これにより、従来必要とされた「山卸」作業を省略できる、つまり「山卸を廃止できる」と提言したのです。

この研究では、予備試験3回、本試験56回という膨大な実験を重ね、生酛造りと成分に違いがないことを科学的に実証しました。1911年の第2回報告と合わせ、この新しい手法が「山廃造り」として確立されます。山廃造りは、酒造現場での過酷な労働環境を改善しながら腐造リスクも抑制するという、一挙両得の画期的な発明でした。

嘉儀金一郎の人物像

調整役としての手腕

金一郎は、単なる技術者ではありませんでした。酒造技術の近代化を進める指導者でありながら、杜氏と経営者の間の調整役としても重要な役割を果たしました。

末廣酒造場の五代目・新城貞は、その回想録で金一郎を「杜氏型。いわゆる温厚篤実で円満型」と評しています。また、金一郎の後輩にあたる山本敬三も自身の回顧録の中で「醸造の専門の事丈(ことだけ)でなく、人間としての修養上の指導を受けた」と記しており、金一郎の面倒見の良さ、人望の高さがうかがえます。

受け継がれる遺志

現在でも、会津若松の末廣酒造は「嘉儀金一郎直伝の山廃造り」を看板に掲げています。これは、金一郎の技術と精神が、彼に接した人々の心に深く刻まれ、世代を超えて継承されていることを示す好例といえるでしょう。

同郷・同時代の先駆者たち

金一郎の隣町出身には、熊本酵母を開発し「酒の神様」と呼ばれた野白金一がいました。また、 「速醸酛」を開発して酒造りの近代化に貢献した江田鎌治郎も、金一郎の同世代です。こうした先駆者たちの手腕により、日本酒の科学的醸造への道は切り拓かれていったのです。

まとめ

嘉儀金一郎は、科学的な視点と現場での実践を組み合わせ、日本酒造りの近代化に大きく貢献しました。その功績は1923年、従四位勲四等、勲四等瑞宝章の授与という形で認められています。

彼が確立した山廃造りは、100年以上の時を経た今なお、多くの蔵で受け継がれています。その豊かな味わいは、現代の消費者からも高い支持を得ています。

科学者としての冷静な分析力と、現場を大切にする温かな人柄。この二つを兼ね備えた金一郎だからこそ、伝統と革新の調和という難題に挑戦できたのではないでしょうか。その精神はこれからも、日本酒業界に末永く継承され続けるでしょう。

参考文献

  • 嘉儀金一郎研究会『山廃造りの創始者 嘉儀金一郎 』(今井出版, 2022年4月1日)
  • 大矢幸雄「近代国家の税収に貢献した酒造技師・嘉儀金一郎-山廃づくりの創始者ー」(松江文化情報誌 湖都松江Vol.46, 松江市文化協会, 2023年9月, P64~P68)
  • History - 末廣酒造株式会社

【シリーズ】日本酒偉人伝
「吟醸酒の父」三浦仙三郎

「山廃造りの創始者」嘉儀金一郎

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